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逆転野球人生

28歳でトレード拒否して電撃引退も、芸能界で子どもたちのアイドルになった定岡正二【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

巨人軍は青春そのもの


甘いマスクで女性人気が高かった定岡


「まだ1勝もしてないのにチヤホヤされてもね。今思えば、人気があるのは球団の財産です。でも当時は嫌だった。騒がれるのが、うっとうしかった」

 定岡正二は『ベースボールマガジン』2019年7月号のインタビューで、18歳当時の喧噪をそう振り返っている。鹿児島実業時代に甲子園で活躍した甘いマスクの巨人のドラ1右腕は、女性誌で郷ひろみや西城秀樹らと並んで特集される野球界の枠を超えたスーパーアイドルでもあった。1975(昭和50)年1月、前年に引退したばかりの38歳の長嶋茂雄新監督と定岡への注目度は凄まじく、多摩川グラウンドにはなんと2万人のファンが集結。“多摩川ギャル”たちが背番号20を追いかけ、異様な熱気に包まれた。

 だが、いつの時代もアイドルは熱狂のど真ん中で孤独である。練習が終わってバスに乗ろうとするとファンからもみくちゃにされて先に進めず、結果的に先輩たちを待たせることになる。先輩にはアイツがいると騒がれるし店に迷惑がかかるからと食事にも誘ってもらえず、女性ファンたちとも個人的に深い関係になったら終わりだとあえて距離を置く。鹿児島から東京に出てきたサダ坊にとって、よみうりランドの合宿所から少し離れた小田急線の生田駅近くの中華料理屋で食べる、しょうが焼き定食の優しい味が身にしみた。

入団1年目のキャンプから定岡を目当てに大勢のファンが練習に訪れた


 本業の野球ではなかなか一軍にすら上がれず、同期のドラフト外入団・西本聖には先を越され、後から入団してきたひとつ年上の怪物・江川卓には一瞬で追い抜かれた。だが、定岡には二軍のどんな猛練習にも耐えうる体力があった。バッテリーを組んだ山倉和博はのちに週べの自身の連載『サインは真ん中高目!?』の中で、その優男のイメージとは真逆の体の強さに驚いたと明かしている。

「何をやっても、ヘバルということがない。西本も強い体を持った投手だったが、持久力という点に関して定岡はズバ抜けていた。長距離走ならいくら走っても平気、という超スタミナ人間。キャンプでも定岡がバテたという話は一度も聞いたことがなかった」

 注目度の高さから寮生活が続いたが、球団の許可を得て車を購入すると、オールスター休みに同世代の選手とサザンオールスターズのカセットテープを聴きながら湘南の海へドライブ。海水パンツがないから下着姿で海に飛び込んだ。定岡にとって、巨人軍は青春そのものだった。

先発から便利屋的な立ち位置へ


1982年、グアムキャンプでの1枚


 長くファームでくすぶり、初勝利はプロ6年目の80年シーズン。その第一次長嶋政権ラストイヤーに9勝を挙げローテに定着すると、翌81年は初の二ケタとなる11勝でチーム8年ぶりの日本一に貢献する。その明るさと人の好さは誰からも愛され、ピンチで藤田元司監督がマウンドへ行き、定岡に「どうだ?」と聞くと、一度は「大丈夫です」と答えるも、再度「本当に大丈夫か?」と念を押され、しばしの沈黙のあと「代えてください!」なんつって降板志願。藤田監督が投手・角を告げると、「角が抑えてくれるといいですねえ」なんてスタンドに座る巨人ファンのような感想を呟き、マウンドに集まったナインの爆笑をさらうのであった。

 指や腕が長く最後までボールを持てる定岡は、スライダーを決め球に翌82年は15勝6敗、防御率3.29。10完投3完封とキャリアハイの成績を残した。今で言うカットボール気味の微妙に落ちながらスライドする、独特の軌道で内野ゴロの山を築いた。広島カープに滅法強く、江川・西本らと三本柱と称されるが、やがてこのスライダーが定岡を苦しめることになる。スライダーに頼り多投しているうちに肝心のストレートの威力が落ちてしまったのだ。序盤は最多勝争いも途中7連敗を喫した83年以降は腰痛や慢性的な右肘痛も抱え、徐々に先発兼ロングリリーフの便利屋的な立ち位置へ。そして、猛虎打線の阪神が球団創設以来初の日本一に輝いた85年。巨人の投手陣は20歳の斎藤雅樹が12勝、22歳の槙原寛己は4勝、ルーキー宮本和知が38試合に登板とヤングジャイアンツの台頭もあり、世代交代の気運が高まっていた(この年のドラフト会議ではPL学園の桑田真澄を1位指名)。

スライダーを決め球に1982年には15勝をマークした


 定岡は春先から中継ぎ起用されるが、王監督から試合後に「おい、サダ。今日は何回肩を作ったんだ」に労われ、「辛かったけど、半面、リリーフが面白くなってきたことも確かなんですよね。そこに監督からあの言葉でしょう。よし、オレはこの仕事(中継ぎ)で新しい自分を作っていくぞ、っていう気持ちになりました」と新たな役割をまっとうする。結局、85年はすべてリリーフで47試合に登板。鹿取義隆角盈男らとともにブルペンの一角を担い、74.1回を投げて4勝3敗2セーブ、防御率3.87。3年前は15勝を挙げている定岡にしては物足りない成績だが、まだ28歳だ。10月24日のシーズン最終戦の阪神戦では、8回にマウンドへ上がると一死一塁の場面で月山栄珠を併殺打に打ち取り、たった3球でピンチを凌いでみせた。プロ11年目を無難に終えたわけだが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない―――。結果的にこれが定岡の現役最終登板となった。

近鉄へ行くか辞めるかの選択


1985年、巨人ラストイヤーの定岡


 翌25日に「飯でも食おう」と球団関係者から呼び出され、「君を欲しいという球団が三つほどある。これは決してトレード通告ではないが、新天地でやってみるのも、君のためかと思うよ」と事実上の構想外を告げられる。行き先は近鉄という具体的な球団名も出た(交換相手は有田修三捕手)。しかし、定岡は移籍を拒否。日本シリーズで阪神が西武を破り日本一を決めた11月2日には球団代表に巨人を辞めることを伝え、なんとそのまま28歳の若さで引退してしまう。11月29日の誕生日を前に自らYGマークと月給170万円の身分を捨てたのである。この一連の騒動は当時大きなニュースとなり、一部マスコミが特ダネに巨人が篠塚利夫と近鉄・大石大二郎のトレードを申し込むも断られたとスッパ抜いたが、仕切り直しの当初は定岡と有田を軸にした3対3の複数トレード予定だったという。そこから二転三転し、背番号20は10月25日にまず岩本渉外補佐と、29日に密かに渡辺管理部長と話し合い、最後に長谷川球団代表と会談するも、これが最初に長谷川代表からトレード話をされていたら受けていたかもしれない……と寂しそうに笑ってみせる定岡の週べ85年11月25日号掲載の独占インタビューも生々しい。

「日は覚えてないけど、何人かの関係者に会って、巨人では来年の戦力に入ってないといわれました」

「だれに食べさせてもらえるわけじゃないし、今までは伝統のある会社(巨人)の中にいて、ある程度は守られてきた人間が、これからはひとりで出て行って、食べていかなければならない。危機感も必要でしょうね。バスに乗ったり、電車に乗ったり……。ガソリン代という目先のことではなく、自分の置かれた立場というものを、気持ちの中で植えつけていくためにもね」

 最後は近鉄へ行くか辞めるかの選択を迫られたが、圧倒的な人気を誇った巨人に対する愛着と意地もあった。間が悪いことに、都内に総額1億5000万円をかけて新居を建設中も、任意引退の場合は給料もその時点で打ち切られる。さらに長谷川球団代表は「任意引退を認めることにした。個人的なわがままが目につくが、契約上何のペナルティもない。ユニフォームを脱ぐのが、唯一のペナルティだろう」と厳しいコメントを出したが、定岡はチームに対する恨みつらみを吐くこともなく、「ファンに育てられた選手だったと思うし、ありがとう、のひとことです」と悲壮感なく爽やかにプロ野球生活を終えた。この定岡の姿勢と、20代で引退した悔しさと無念さは第二の人生で生きることになる。

スポーツキャスターやタレントとして活躍


 86年春には渡米し、巨人と友好関係にあったドジャースのキャンプに単身参加。練習を手伝う打撃投手の名目だったが、愛着のある背番号20と主力選手なみの個室の宿舎が用意された。日本でのテレビ局との契約書には「もし、大リーグ入りの場合はこの契約はなかったことにする」という一文もあったという。週ベ86年2月3日号のインタビューでは「このままユニフォーム脱ぐんじゃ、どこかに燃え切れないものが残るような気がして……」と本音もポロリ。渡米が定岡なりの現役引退へのケジメのつけ方だったのだ。

 帰国後はTBSのスポーツキャスターやタレントとして活躍。『週刊読売』の桂三枝との対談では、バラエティ番組の出演に苦言を呈す球界関係者もいることを認めつつ、「ぼくは、これもひとつのやり方だと思ってますので。野球の根性論とか技術論は先輩方に任せて、ぼくらの仕事は若い人たちのハートをつかんで」と“野球宣伝員”としての役割を意識していることを明かした。現役晩年の中継ぎ登板と同じで、その時その場所で求められる仕事をまっとうしたのだ。

『小学五年生』93年11月号には、「五年生が選んだTV番組ベスト5」というアンケートが掲載されている。3位が「ダウンタウンのごっつええ感じ」、2位は「とんねるずのみなさんのおかげです。」、そして1位は「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」で、回答した千葉市の女の子のコメントが「心霊写真大会も面白かったけど、負け犬サダが最高!」だ。

 当時、圧倒的な人気を誇ったとんねるずの石橋貴明や木梨憲武とゴーカートやPK対決で戦う“へなちょこサダ”は、その現役時代を知らない世代からも広く支持された。あの頃、少年たちは放課後の校庭で「ナイアガラ・ドロップキック」をこぞって真似したものだ。20代後半で失意の現役引退後、気持ちを入れ替え、芸能界で結果を出した逆転野球人生。巨人では若い女性のアイドルだった定岡正二は、第二の人生でも見事に子どもたちのアイドルになってみせたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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