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プロ野球もしもオーダー

1年に満たない在籍で旋風を巻き起こしたホーナー。もし巨人にトレードされていたら?【プロ野球もしもオーダー】

 

呂明賜がブレークした1988年の巨人


1987年のシーズン途中、ヤクルトに入団すると旋風を捲き起こしたホーナー


 プロ野球の長い歴史で、最も短い期間の在籍で、最もインパクトを残した助っ人といえば、1987年のシーズン途中に来日してヤクルトへ入団も、オフには退団してしまったボブ・ホーナーではないだろうか。デビューが5月5日、こどもの日であり、そこでいきなり初本塁打、翌6日には3打数連続本塁打。最終的には93試合の出場で31本塁打を残した。

 ヤクルトを退団する際に、「日本は嫌い。地球の裏側まで行って、ベースボールといえないスポーツをしたくない」と言ったとされるホーナーだったが、近年のように日本人メジャー・リーガーが少なからず活躍し、プロ野球でも助っ人の移籍が珍しくない時代だったら、どうだっただろうか。ヤクルトは退団したとしても、他のチームで残留して、さらなる旋風が続いていた可能性もありそうだ。特に90年代、長嶋茂雄監督の巨人などは、破格の条件で獲得に動きそうでもある。

 ただ、当時の巨人は王貞治監督。現役時代、“ON砲”としてクリーンアップを組んでいた長嶋監督ほど補強に熱心だった印象はないが、のちダイエー(現在のソフトバンク)監督としては工藤公康らの補強もあって、初のリーグ優勝、日本一に導いている。今回は、ヤクルトを退団する意向を示したホーナーに巨人がトレードをはたらきかけたという想定で、87年のヤクルトにおけるベストオーダーから、ホーナーの打順と守備位置を、88年の巨人にスライドしてみる。88年の巨人はウォーレン・クロマティの故障で“第3の外国人”だった呂明賜がブレーク、江川卓が現役を引退したばかりでエースはビル・ガリクソンというシーズン。当時は一軍に登録できる外国人選手は2人までだったが、この規定は考慮せず、機械的に作業してみると、以下のようなラインアップとなった。

1(中)簑田浩二
2(遊)岡崎郁
3(二)篠塚利夫
4(三)ホーナー
5(右)呂明賜
6(左)駒田徳広
7(一)中畑清
8(捕)有田修三
9(投)ガリクソン

実際のベストオーダーは?


1988年は巨人の四番として31本塁打を放った原


 ヤクルト87年のベストオーダーでは、ホーナーは「四番・三塁」。これをそのまま巨人88年のベストオーダーに反映させてしまうと、弾き出されてしまうのは主砲の原辰徳だ。ただ、もし外国人の登録を2人までとすると、後年の原のように、外野へ回って打線に残る可能性が出てきそうだ。だが、そうなると、クロマティが故障で不在だとしても、ガリクソンと呂、そこにホーナーが加わる三つ巴の争いとなり、もともと二軍でくすぶっていた呂のブレークが消える。王にあこがれ、台湾から来た呂も初打席から本塁打を放ち、“アジアの大砲”、“ルー台風”などといわれて旋風を巻き起こしている。悩ましい部分だが、なんとも贅沢な悩みといっていい。

 翌89年、ベストオーダーにおける原の守備位置は左翼。88年の左翼には初めてベストオーダーに並んだ駒田徳広がいる。ただ、もともと駒田は一塁手で、駒田を一塁手として起用することで、中畑清も本職の三塁に戻って、原が外野に回ることで打線を整えたのが89年だった。80年代の巨人で遊撃は河埜和正から“聖域”で、88年の岡崎郁も動かないだろう。同じく80年代で篠塚利夫が二塁を譲ったのは大型新人として原が入団した81年の開幕から少しだけ。中畑が打線から外れる可能性もあるかもしれない。一方で、外国人枠に阻まれた呂と故障のクロマティが二軍にいたとしたら、空いた右翼に駒田が回ることも考えられる。

 88年は東京ドーム元年でもある。実際の巨人は中日と12ゲーム差の2位で、オフに王監督は退任している。ホーナーの加入は、この大差を覆せるだろうか。では、続きはファンの皆様の夢の中で。

(巨人1988年のベストオーダー)
1(中)簑田浩二
2(遊)岡崎郁
3(二)篠塚利夫
4(三)原辰徳
5(右)呂明賜
6(左)駒田徳広
7(一)中畑清
8(捕)有田修三
9(投)ガリクソン

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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