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逆転野球人生

ドラ1でプロ入りも6年で最初の戦力外。ラーメン屋、広告代理店、台湾球界を経て「32歳のプロ初勝利」を挙げた野中徹博【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

エース候補が2年で練習生扱いに


阪急時代の野中


『オールドルーキー』という映画がある。

 主人公は左肩の故障から、24歳の若さで現役引退した元マイナーリーガーのジム・モリス投手。引退後のモリスは故郷に戻り高校教師をやりながら、野球部監督を務めていた。ある日の試合で大敗を喫した生徒たちに向けて「夢と誇りを持て」と説教していると、逆に「そういう先生の夢はなんなの?」と突っ込まれてしまう。練習でモリスのスピードボールを目にしていた彼らは、あれだけのボールを投げられるのにプロに再挑戦しないなんてもったいないよとモリスを責める。そして、「俺らが地区優勝して州大会に出ることができたら、監督もどこかのプロチームのテストを受けてください」と約束を交わすのだ。迎えた入団テストで、モリスは剛速球を投げ込みスカウトを驚かせる。なにせ昔は136〜7キロの直球しか投げられなかった平凡なサウスポーが、35歳になってマウンドに戻り、いきなり150キロ台を連発してみせたのだ。こうして、オールドルーキーのメジャーリーグへの挑戦が始まった。

中京高では三度、甲子園出場を果たした


 男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。かつて、日本球界にも現役引退後しばらくして復帰を決断、NPB初勝利を挙げるまで計13年間もかかった投手がいた。1983(昭和58)年ドラフト会議で、阪急ブレーブスから1位指名を受けた野中徹博である。名門・中京高ではエースとして甲子園に三度出場。同世代に水野雄仁(巨人)や渡辺久信(西武)らもいたが、野中は高校球界屈指の大型右腕として、鳴り物入りでプロ入りする。球団からは山田久志の17番に次ぐ、背番号18を与えられた将来のエース候補だ。しかし、ルーキーイヤーにフォーム改造を命じられ、試行錯誤するうちに右肩を故障。2年目には一軍デビューしたもののウイルス性の肝炎にもかかり、オフに東京労災病院で肩の手術に踏み切った。悔しくて、手術をした24時間後にはもう、ベッドの上の鉄のはりにひもをつけて腕を回すリハビリを始めていた。

 将来のエース候補のはずが、たった2年で練習生扱いに。打撃投手役を務めながら、支配下復帰してファームの南海戦に先発すると9回まで無失点に抑えてみせたが、今度は右肘を痛めてしまう。一軍への道は断たれ、やがて阪急はオリックスへ身売り。野中もプロ6年目の89年に野手転向すると、ウエスタンで打率.327と非凡な成績を残すが、その年限りで戦力外通告を受けた。まだ24歳。同期入団の星野伸之はこの年15勝を挙げていた。ドラ1の野中がクビになり、5位の星野がエース格に。高校時代は自分の控え投手だった広島紀藤真琴も一軍に定着していた。みんな一緒に頑張りましょうは通じない、プロは残酷な世界だった。

テレビ番組の収録で138キロをマーク


「もっと野球をしたい。今一度投手として挑戦したい」という想いを持ち続けた野中は、90年秋にダイエーの秋季練習に参加して入団テストを受けるも不合格。地元の岐阜に戻ったが、当時の心境をのちに『週刊現代』でこう吐露している。

「ダイエーを落ちた後は田舎で運送業をしたり、札幌でラーメン屋の修行をしないか、といわれて北海道まで行ったり……。だけど、そんなことをしていても、テレビで同世代の選手の活躍を見るたびに『オレはこんなところで終わる人間じゃない。負けてられないぞ』という意地をずっと持ちつづけていたんです」

 戦力外を告げられた直後は、「今にみてろ。野球だけが人生じゃない」と部屋を飛び出したが、時間が経っても野球への未練がどうしても捨て切れなかった。『週刊宝石』91年4月25日号の「プロ野球あの名選手はいま」という特集に、野中も登場している。東京で就職した直後のインタビューである。

「地元だと“甲子園の野中”の印象が強いしチヤホヤされていたら、できることもできないと、それで東京に出てきたんです。この2月に会社を作ったんです。社員は現在、営業マンを含めて7人。電話による情報産業の広告代理店として活動しています」

 うす茶色のダブルスーツ姿で、「代表取締役」の名刺を渡す野中。記者から「電話による情報産業というとダイヤルQ2みたいなもの?」と突っ込まれると、「宣伝活動としては、先頭にロールスロイス。うしろにベンツのパレードの形をとり、六本木、新宿などの繁華街でキャンペーンガールが電話番号入りのチラシをくばる」なんて謎すぎるバブル好景気の残骸のような案を語る野中であった。仕事はうまくいっているとは言い難かったが、やがて漫画家の水島新司の軟式野球チームに誘われプレーするようになる。ポジションはショートやサードを守ったが、野中のバッグにはいつも硬式ボールがひとつ入っていたという。試合後に投球練習をするためだ。週べ93年6月14日号には水島新司氏の貴重なインタビューが掲載されている。

「ボクは『ボッツ』というチームを持っていて、年間120試合ほど組んでいるんですよ。で、100試合は確実にやります。ある日、ルーキーの頃に山田久志さんの紹介で知り合った野中君が、四谷三丁目で“あぶさん”という店をやっている石井さんと一緒に来て、『野球やりたい』っていうんです。じゃ、うちのチームでやれば、ということで彼は自営のかたわら、うちのチームのショートをやるようになった。5割は打つし華麗な守備だし、おかげで勝ちまくりましたよ」

 ある日、野中は芸能人のチームと戦うテレビ番組の収録でマウンドに上がり、全力で投げてみると「138キロ」を記録した。あれだけ痛かった肩が完治していたのだ。そうなると、再びプロでやりたいという気持ちが抑えきれなくなる。しかし、すでにオリックスを退団から3年が経とうとしており、日本のプロチームにテスト申請したが、すべて断られた。そこで、台湾行きという選択肢が出てくる。週べで連載「台湾プロ野球ホットライン」を書いていた戸部良也氏によると、92年9月に野中から電話が掛かってきたのだという。

「実は、何としても野球があきらめ切れないのです。台湾のプロテストを受ける道はないでしょうか」

奇跡のカムバック


 野中は台湾球界の峻国ベアーズというチームを紹介され、翌93年2月に入団テストを受け合格した。指揮を執るのが日本人の寺岡孝監督という幸運もあった。開幕当初はリリーフ、やがて先発も兼任で15勝4敗1セーブの大車輪の活躍を見せる。ストレート、タテに変化するカーブ、2種類のスライダーを駆使して、配球も自分で組み立てられるようになった。NPBの6年間で17イニングしか登板していない男が、台湾の1シーズンで151イニングを投げてみせたのだ。28歳の元甲子園のヒーローの復活は日本でも「奇跡のカムバック」と話題になる。

中日の入団テストに合格し、94年から96年までプレーした


 週べの「94キャンプExpress」では、背番号なしのユニフォームで中日ドラゴンズのキャンプに参加するテスト生の野中の姿がリポートされている。そして94年2月24日、中日と契約を交わすのだ。子どもの頃からファンだったチームで5年ぶりの日本球界復帰。94年は21試合に登板、プロ初セーブも挙げた。巨人と中日が勝った方がリーグ優勝という、プロ野球史上最高のテレビ視聴率48.8%を記録した“10.8決戦”にも中継ぎで投げている。だが、星野仙一が監督復帰した96年にほぼ構想外となり、再び戦力外に。それでも、野中は諦めなかった。プロ4度目のテストを受け、ヤクルトに入団するのだ。新天地には野村克也監督と、昭和40年組の同い年の古田敦也がいた。

「野村さんの下で投げれば、古田に受けてもらえれば、きっといい結果が生まれると確信して、ヤクルトにお世話になることを決めたんです」

97、98年は野村監督率いるヤクルトのユニフォームを着た


「野村再生工場」の目玉商品と注目された野中は、97年5月27日横浜戦、5番手で登板すると、直後に自チームが逆転してくれて白星がついた。ついに念願の日本球界初勝利だ。「自分にはこういう運はないのかな、と思いました」と横浜スタジアムのお立ち台で声を詰まらせた背番号38。ドラフト1位でプロ入りしてから、気が付けば13年間もの歳月が流れていた。当時18歳の青年も、時が流れ数日前に32歳の誕生日を迎えていたが、ついにプロ野球で勝ってみせたのである。97年シーズン、野村ヤクルトは日本一に輝き、野中は自己最多の44試合に登板。防御率2.28という好成績を残した。

 NPB通算でわずか2勝。だが、何度クビになろうが、「今度こそは……」と逆転野球人生を狙って立ち上がる男の姿は多くの野球ファンの心を打った。彼は投球だけでなく、己の悔しさや生き様もグラウンドに刻んだのだ。野中徹博は、まさに記録より記憶に残る選手だった。そういう野球人生もある。

文=中溝康隆 写真=BBM
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