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昭和ドロップ!

長嶋茂雄監督を語ろう! 篠塚和典さんが落合博満さん入団で背番号6を取られたら辞めると言ったとか言わないとか…/『昭和ドロップ!』

 

 定岡正二氏、篠塚和典氏、川口和久氏、槙原寛己氏の書籍『昭和ドロップ!』が5月2日(一部地域を除く)、ベースボール・マガジン社から発売されました。昭和に生まれ育ち、昭和、平成に輝いた4人が、巨人長嶋茂雄、青春の多摩川ライフなど、あのころのプロ野球を愛あり笑いありでたっぷり語り合う1冊です! これは不定期で、その内容の一部を掲載していく連載です。

「ミスターだけじゃなく、野手の監督はそうなりがちだよね」(定岡)


『昭和ドロップ!』表紙


 再び定岡正二さん、篠塚和典さん、川口和久さんでミスターこと、長嶋茂雄さんについて語ってもらった章の一部である。今回は1993年、長嶋茂雄監督2期目の話である。

――長嶋監督2期目の2年目は、中日との最終戦同率決戦「10.8」で優勝、さらに宿敵・西武を破って日本一の1994年ですが、開幕前、篠塚さんには『背番号6』問題がありました。

篠塚 落合博満さんが中日からFAで巨人に入ってきて、自分がずっと着けていた6を欲しがったときね。

川口 「6を取られたらやめる」と言ったんでしたよね。

篠塚 新聞記者が、そのほうが面白いからそう書いたんじゃないの。もちろん、こだわりがなかったわけじゃないけど、新聞にミスターが「自分の3を譲ってもいい」と言ったと出ていて、すぐミスターに連絡したんだ。「絶対にやめてください。6は渡してもいいですから」と。結局、1年目の落合さんの番号は60番になったけど、落合さんには「シノは来年ユニフォームを脱ぐから1年待ってくれ」って話したんじゃないかな。

川口 シノさんは俺と入れ違いで、その1994年限りで引退でしたが、やめるのは決めていたんですか。

篠塚 腰痛がひどくてきつかったのは確かだけど、まだやりたかったし、やれると思っていた。リーグ優勝したときも、まだやめるつもりはなかったんだ。日本シリーズの初戦を前にミスターに呼ばれて、「シノ、どうだ、そろそろ」と言われたときも、自分の中には現役20年(当時は19年目)という目標があったから、「やめるときはファンの人に報告してからと考えています」と答えた。でも、日本一が決まった日、あらためて監督室に呼ばれて、「球団としても若い選手を育てたい」と言われたときに、「はい。分かりました」と。ミスターを日本一にしたということでは、いいケジメかなとも思ったしね。

定岡 いいな。ミスターの役に立ててうらやましいよ。そのあと、シノはコーチになったけど、ミスターはまた違ったのかな。

''篠塚 まったく違うということはないですよ。ただ、「へえ、コーチには、こういう話をするんだ」というのは少しあった。選手には言えないこともありますからね。

川口 例えば。

篠塚 オリックスから来た野村貴仁(オリックスから1998年巨人に移籍の左腕)って覚えているだろ。

川口 ああ、清原和博のときの(混み入っているので、説明省略)。

篠塚 あいつが登板して、まったくストライクが入らなかったときがある。そのときミスターがベンチ裏に行った。イライラすると、いつもそうするんだ。それで僕も行ってみたら、裏で試合のモニターをじっと見ていて、「シノ、あいつストライク入らんだろ。あいつは、俺に何を言ったと思う。『僕はボール1個分の出し入れができます』。そう言ったんだ。あいつはもうダメだ!」って言って、すぐ交代。そのあともしばらく大事な場面では使わなかった。投手に関しては、あきらめというか見切りがすごく早かったな。

定岡 ミスターだけじゃなく、野手の監督はそうなりがちだよね。
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