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よみがえる1958年-69年のプロ野球

日本人初のメジャー・リーガーを生んだ? 新人研修制度/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編

 

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙


途中入団選手の増加


 今回は9月28日発売、1962年編から新人研修制度の話を拾ってみた。



 このシリーズのように、いろいろな方の証言を聞き、資料を掘り起こす作業をしていると、点が線になることがある。

 現在、11月初旬発売予定で、ダンプこと辻恭彦さんの書籍『猛虎二番目の捕手』の制作を並行してやっているが、ダンプさんの阪神入団が1962年夏となる。西濃運輸で都市対抗出場後の入団で、契約は4月で済ませ、700万円の契約金もそのときもらっていたと聞き、まず驚いた。

 当時の700万円と言えば、かなりの高額だ。失礼ながら、勝手にプロ入り前は無名の存在と思っていたが、この号の調べものの中で、ベースボールマガジン(月刊誌)に社会人No.1捕手との評価で紹介されているダンプさんを見つけ、当時の写真を書籍で使うこともできた。

 途中入団については、担当の佐川直行スカウトから「新人研修制度が始まるから、シーズン中に入ってくれ」という説明を受けたという。これは5月1日に就任した内村祐之コミッショナーが打ち出し、翌1963年入団の新人から適用されるもので、開幕から高校出が100試合、大学出、社会人出が50試合一軍のゲームに出場できず、研修期間となる(未成年者100試合、成年者50試合との表記もあった)。

 なんだかもったいない制度とも思うが、過熱する選手獲得競争に歯止めをかけるために考えられたものだ。要は「どうせすぐには使えないのだから、新人にそんなに高い契約金を払っても仕方ないでしょ」ということなのだろう。

 制度適用前にと、結果的に、この年はダンプさん、日本石油で橋戸賞に輝き大洋入りした佐々木吉郎をはじめ、途中入団選手が非常に多い1年となり、翌63年は史上唯一セ、パで新人王が誕生しない1年にもなったが、これはもう仕方あるまい。

 その中で新しい発想をしたのが、親分こと南海・鶴岡一人監督である。年末のインタビューで「どうせしばらく使えないなら、アメリカ球界に留学させようと思う」と言っていた。

 自身、62年の開幕前にヤンキースのキャンプの視察をしており、SFジャイアンツの極東スカウトでもあったキャピー原田との太いパイプもあった。候補に挙げていたのが、大争奪戦の末、63年入団となった中京商高の林俊彦と、こちらは62年9月に声を掛け、すでに契約を交わしていたので制度には関係ないと思うが、法政二高の村上雅則の2人の左腕だ。村上には、海外留学を入団の条件にも出していたという。

 当時の南海は57年早大から入団し、1年目の21勝以後、未勝利に終わった木村保をはじめ、新人投手が短期間で壊れてしまうケースが多く、鶴岡監督が新しい育成の取り組みを模索していたことも背景にはある。

 63年春は林と杉浦忠らのキャンプ派遣を行い、翌64年には村上らを1Aフレズノでプレーさせた。これが日本人初のメジャー・リーガー、マッシー村上誕生にもつながるのだから面白い。

 なお、ベースボール・マガジン社出版野球担当というツイッター、ではなくXを間違って開設してしまい、どうせならと時々記事をアップしています。お暇な方はどうぞ。
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