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よみがえる1958年-69年のプロ野球

【東京スタジアム開場話03】開場式で永田雅オーナーは言った。「皆さん、パ・リーグを愛してやってください」/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編

 

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙


健康的な観光街に


 今回は9月28日発売、1962年編からこの年開場した東京スタジアム話を3回に分けてお届けする。今回がラストです。



 6月2日、東京都の北東部・南千住に完成した新球場『東京スタジアム』のこけら落としには3万5000人の大観衆がぎっしり。下駄履き、浴衣姿と、下町の球場らしいファンも多かった。

 ただ、このときもまだ、入り口には大勢のファンが詰めかけ、「入れろ、入れろ」と騒いでいた。当日券を求めてではなく、6月いっぱい有効と書かれた招待券を地元関係者に15万枚配っていたからだという。

 東京スタジアムは日本で初めて内野にも芝生が敷かれ、座席は赤、青、黄で色分けされ、華やか。ダグアウトは奥行きはないが、横に広く、ほかの球場ほど掘り下げられていないのが特徴だった。

 試合はナイターで行われたが、照明はやぐら式ではなく、ポールに乗せられた6基。永田雅一オーナーが開場前の点灯テストで「後楽園球場も驚くだろう」と喜んだ明るさが売りだった。

 周囲が民家で高いビルがなかったこともあり、球場の光はかなり遠くからも見えた。『光の球場』とも呼ばれ、両津勘吉少年を魅了した。

 バックヤードの設備も最新式。当時は珍しい室内ブルペンもあり、選手たちにも好評だった。エースの小野正一は「今までは他人の家で野球をやっているようなものだった。それがこの球場は初めてやるのにしっくりきた」と笑顔で話している。

 一方、主砲・山内一弘(この時点ではまだ和弘)は「きれいで快適だが、ホームランの出やすい球場なんだね」とも言い、東映の張本勲も「これはホームランが入りやすそうな球場だな。大毎さんはえらいものをつくったよ」と言っていた。

 両翼90メートル、センター120メートルは後楽園と同じなのだが、右中間、左中間のふくらみがなく。風がホームからセンターへと吹くことが多い。

 グラウンド下のボウリング場の工事が続いていた。24レーンで完成は7月上旬と発表されている。冬季にはスケート場にもなるという。ビリヤード場、バーなども設置予定で、球場の大塚幸之助支配人は、「私の理想は東京スタジアムを中心として下町の人たちに愛される明るく健康的な観光街をつくることです」と話していた。

ダグアウト直通電話


 6月2日に戻す。永田雅一オーナーは午後2時には球場に現れた。表情は常に笑顔だ。

 16時から開場式。まずは音楽隊のパレードを先頭にパ・リーグ6球団が一堂に会した行進が行われ、永田オーナーもあいさつに立った。

「ここに本球場が完成したことは、多年われわれが念願としていたことでございます。この開場の日、多数来場してくださった皆様をはじめ、球場建設にご協力いただいた皆様にも感謝しますとともに、今後、この日本の代表的球場を愛されんことをお願いします」

 初めは静かな口調だったが、だんだん熱を帯び、「皆さん、パ・リーグを愛してやってください」の言葉でひときわ大きな声になった。

 始球式は永田の親友でもある河野一郎農林大臣。アメリカ式に客席からの投げ下しだったが、これは張り切って投球練習し過ぎて腕が上がらなくなったからだいう。

 南海3連戦は3連勝。全戦を球場で見た永田オーナーは、「大毎オリオンズもいろいろな方面からいろいろ言われてきた。しかし、こうして新球場もつくってやった。もうあとは選手が力いっぱいプレーに励めばいい。私はこれからゆっくり野球を楽しむよ」とご満悦の表情で話していた。

 しかし、その後、チームの不振が続くとダグアウトと直通の電話を設置。

「俺は大いに口も出す」と宣言した。
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