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逆転野球人生

プロ初安打まで8年…加藤博一“喫茶店のアルバイト”で食いつないだ“二軍の首位打者”【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

3年目の終わりに最後通告


阪神時代の加藤


「お前は足が速いんだから、スイッチヒッターにならないか? 考えているヒマはないぞ」

 プロ3年目を終えた加藤博一は、稲尾和久監督に呼ばれて、そう告げられた。要は「スイッチヒッターをモノにしなければクビだぞ」という最後通告である。佐賀県で育ち、野球ではほぼ無名の多久工業高から西鉄ライオンズへテスト入団。雪の中、泥だらけになりながら打撃テストでアピールして、これまで投手と外野手だったが、「内野もできます」とハッタリをかまして合格を勝ち取った。

 高校でドラマーとしてロックバンドを組む異端の下剋上球児は、校内放送で「化学工学科3年生の加藤博一クンが西鉄ライオンズのテストに合格しました」と祝福されたが、ドラフト外のテスト生に契約金はなく、支度金はたったの5万円。合宿所に入る際、フトンを買ったらすっからかんだ。最低保障の年俸60万円では月9000円の寮費と野球用具を買えば、タバコ代も残らなかった。1年目の背番号は「75」で少年ファンからコーチと間違えられ、あらゆる面でドラフト上位選手との格差を痛感する。

 ならば、激励会の新人紹介では同期より目立ってやると、壇上のドラム・セットでドラムソロを演奏してみせ、先輩たちの度肝を抜いた。キャンプ中の宴会では裸踊りで場を盛り上げる。趣味は生活費を懸けたパチンコだ。そんな芸達者の加藤は先輩たちから可愛がられたが、一方で本職の野球のほうでは苦労した。3年目に一軍デビューをするも、わずか3試合の出場で1打席しか立てず、足を生かすためのスイッチヒッター勧告だ。

 慣れない左打席では死球の避け方も分からず、キャッチャーのプロテクターとレガースをつけて打撃投手のボールに向かった。左手で500本、右手で500本、最後は両手で体力の限界までティーバッティングを続ける日々。食事の際は左で箸を持ち、水道の蛇口も左でひねった。伊藤光四郎島原輝夫の両コーチは、両打ちの先駆者・柴田勲(巨人)に電話をしてノウハウを聞き出し、休日返上で練習に付き合ってくれた。さらに同僚の真弓明信を誘いジムに通い、当時は珍しかったウエート・トレーニングにも没頭する。黒い霧事件に揺れた西鉄は太平洋クラブライオンズと名を変えていたが、加藤は5年目の74年にはウエスタン・リーグで打率.359というハイアベレージを残し首位打者に輝くのである。

二軍で飼い殺しの日々


1970年から75年までライオンズでプレーした


 しかし、それだけ打ちまくっても、当時の和田博美二軍監督との確執もあり、一軍から呼ばれることはなかった。加藤の自著『生き抜いた21年』(青谷舎)によると、規定打席にわずかに足りていなかった加藤のために、一軍選手の大田卓司竹之内雅史が和田監督に頭を下げて、「和田さん、加藤を使ってやりゃあいいじゃないですか。首位打者を取らしてやってくださいよ」と頼み込んでくれたという。だが、首位打者のトロフィーは、球団事務所に呼ばれ、早く持って帰ってくれと木箱のまま渡された。その屈辱をのちに週べ80年9月29日号のインタビューでこう振り返っている。

「クソっと思った。金ヅチとクギ抜きを借りてきて、木箱をはずして、そのままトロフィーぶち割ったろうかと思った。一生懸命やったのにこんなもんかなと思ったですね。あのときは、ほんとくやしかった」

 その頃の加藤は自らに「プロはあと11球団ある。真面目にやれば必ずいいことがある。オレはファーム選手の中では一番上にいる」と言い聞かせながら、猛練習に励んだ。安月給の身で、オフになると工事現場、喫茶店、スナック、魚屋とひたすらアルバイトの日々だったが、生まれつき手先が器用な加藤はハンバーグ定食からクリーム・パフェまで綺麗に仕上げてみせた。それでも翌年以降もチャンスは与えられることなく、いわば二軍の首位打者は飼い殺し状態である。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。

阪神で“江川キラー”に


阪神では江川との相性が抜群だった


 75年5月、甲子園球場での阪神との二軍戦。加藤は初戦に代打で2打数2安打、2戦目は先発で4打数2安打という活躍を見せた。それを偶然見ていたのが阪神一軍監督の吉田義男である。「加藤を欲しい」とトレードを申し込み、そのオフに鈴木照雄五月女豊との2対2の交換トレードで片岡新之介とともに阪神へ移籍する。しばらくライオンズ時代と同じく二軍生活が続くも、2年連続でウエスタンの盗塁王を獲得した。二軍監督の安藤統男から「セカンドをやらないか」と言われたら、なりふり構わず特訓する。いつクビになるか分からない。一軍と二軍を行き来するエレベーター選手だったが、二軍落ちしたらランニングではあえて先頭に立って声を出した。ふてくされて諦めて終わっていく選手を何人も見てきたからだ。

 77年には8年目にして待望のプロ初安打初盗塁を記録。代走、守備固め、代打……一歩ずつ、着実に課題をクリアして、加藤は自分の居場所を作っていく。79年には“空白の1日”騒動で巨人入りした江川卓から10年目のプロ初アーチを放ち、以降“江川キラー”と呼ばれるようになる。苦労人が怪物投手に浴びせた甲子園での一発は話題になり、当時の週べでも「10年目の初ホーマー」という特集記事が掲載されている。

「江川はいわゆる1億円男。それだけに燃えた。このチャンスを絶対に逃してたまるものか、と思って打席に入った」と語る加藤は、スタンドインを見届け、一つでも踏み外したら大変なことになると噛みしめるように二塁、三塁と回ったという。

80年ついにブレーク


オフにはテレビに出演し、持ち前の明るさを発揮した


 飛躍のきっかけを掴んだ加藤は、翌80年シーズン、ついにブレークを果たす。前年まで10年間でたったの133試合しか出られなかった男が、「二番・二塁」で初の開幕スタメンを勝ち取るのだ。この年、阪神はゴールデンルーキー岡田彰布の二塁挑戦が話題となるが、ファンから批判されながらも自分を使ってくれたブレイザー監督のためにもと加藤は燃えた。すりこぎ型のバットを短く持ち、11年目で初の規定打席に到達。リーグ5位の打率.314、7本塁打、21打点。高橋慶彦(広島)とのタイトル争いにはわずかに及ばなかったものの、34盗塁はリーグ2位という好成績だった。

 29歳の逆襲で背番号32から8へと出世。ひょうきん男と呼ばれた明るいキャラクターで、オフにはテレビ出演のオファーが殺到するようになる。当時、プロ野球選手がクイズや歌合戦で競うテレビ番組、火曜ワイドスペシャル『12球団対抗日本シリーズ』が冬の風物詩だったが、加藤は熱唱するあまりマイクで口を切り爆笑をさらい、お茶の間でその顔と名前を売った。いわば80年代プロ野球選手のバラエティタレント路線の走りでもあり、大阪のホテルプラザで開催された「加藤博一を励ます会」には、阪神ファンで知られる上岡龍太郎も駆け付け、大阪のプロダクションから芸能界入りを薦められる人気ぶりだった。

屋鋪[左]、加藤[中]、高木[右]のスーパーカー・トリオ


 しかし、翌年以降は太腿二頭筋断裂の大きな故障もあり低迷。82年12月のゴルフ中に安藤監督に呼ばれ、「お前、大洋へ行くか?」と野村収との交換トレードを告げられるのだ。移籍3年目の85年には、近藤貞雄監督のもと屋鋪要高木豊とともに“スーパーカー・トリオ”の一員として売り出され、キャリアハイの48盗塁を記録。同時にリーグ最多の39犠打と、走れてつなげる当時の理想的な二番打者だった。翌87年にはプロ17年目で念願のオールスター初出場も実現させ、週べインタビューではその喜びの声と近藤監督や同僚への感謝を口にしている。

「スーパーカー・トリオなんてカッコいいネーミングもしてもらったし、感謝、感謝ですよ。豊(高木豊)は都会的な走塁をするよね。屋鋪は野性味あふれる走りが持ち味だね。その中で、真ん中の二番にいるオレは何をしようかって考えた。そこで“一歩引いた盗塁”ができれば、と思ってね」

 一番高木の盗塁を助け、自分が出塁したら三番・屋鋪の打点アップのために走る。投手のクセを見抜くのに長けていた加藤は、惜しみなくその情報を共有した。3人で計148盗塁の荒稼ぎで、「盗塁数は豊や屋鋪に任せとくさ」なんて笑うベテランの姿。晩年はここぞの代打でチームに貢献して、90年まで現役生活を続けた。ライオンズでは6年間で1打席しかチャンスをもらえず、アルバイトで食いつないだ青春の蹉跌。初安打を放つまでに8年間もかけた男は、決して腐らず、コツコツと練習を積み重ね、21年間もプロ野球選手であり続けたのだ。阪神時代、苦節11年目に初の打率3割を記録した加藤は、週刊ベースボールの直撃にこんな言葉を残している。

「ボクはカメのようにノロノロと歩いてきた。いきなり、いい成績を残せるわけがない。だから一つ一つ成績を伸ばすようにしているだけです」

文=中溝康隆 写真=BBM
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