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愛すべき助っ人たち

“舶来”安打製造機…「若いからこそ、いろいろ経験してみたくて」来日した大洋のパチョレック【愛すべき助っ人たち】

 

大杉勝男コーチとの邂逅で復活


日本球界でシュアな打撃を披露したパチョレック


 昭和から平成にかけて、荒れる助っ人が少なくなかった時期に、実力だけでなく人柄にも優れた助っ人が多かったのが大洋。なかなかチームの戦績につながらなかったのは皮肉な気もするが、巧みなバットコントロールで安打を量産して、首位打者にも輝いた“舶来”ヒットメーカーがジム・パチョレックだった。

 1987年にメジャーデビュー。だが、そのオフに大洋から声をかけられ、来日を決めた。助っ人にも全盛期を過ぎた選手の来日が多かった時代でもある。まだ28歳という若さで、「若いのに、と言うかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたかった」と語っている。日本に関する知識は皆無に近かったというが、それでも来日を決めるあたりは、確かに「若いからこそ」かもしれない。日本への順応も早く、すぐに寿司も食べられるようになったというのも同様だ。もちろん、海外で日本食として寿司が簡単に食べられた時代でもない。

 そして、結果が出たのも早かった。もともと器用な打撃には定評があったが、「翌年も契約してもらうためには結果を残すしかない」という持ち前のハングリー精神に加え、チームメートで来日3年目を迎えるカルロス・ポンセのアドバイスもあり、1年目からリーグ最多の165安打。守っても一塁と左翼を兼ねて、全試合に出場している。だが、3年目となる90年に本塁打を意識しすぎたことで、打撃を狂わせてしまう。そんな若い助っ人の苦境を救ったのが大杉勝男コーチだった。

 大杉コーチの指導で苦手の内角球を克服、打撃スタイルも戻したことで持ち味も取り戻して、自己最多、2度目のリーグ最多となる172安打、打率.326で首位打者に輝いた。翌年も打率3割を維持したものの、本塁打を減らしたこともあり、オフに解雇。「野球は野球。チームが変わるのは問題ない」と前を向き、阪神へ移籍した。

 新天地1年目の92年は2チームにまたがって5年連続で打率3割、自身3度目のリーグ最多となる159安打でチームの躍進に貢献している。だが、翌93年は外国人枠と自身の故障に苦しめられて8月に帰国、退団している。

写真=BBM
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