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逆転野球人生

25歳のリリーフエースがトレード通告!「やめてやる」からロッテで最優秀救援投手を獲得した牛島和彦【逆転プロ野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

スカウトも驚いた頭脳派


中日時代の牛島


「これまでに数えきれないほどの野球選手を見てきたが、その中で最も「頭がいいな」と思った選手は誰かと聞かれたら、牛島和彦をおいてほかにはいないと答えるだろう」(中日ドラゴンズ 伝説のスカウトかく語りき ドラマは球場の外にある/法元英明/ぴあ)

 元中日ドラゴンズの法元スカウトは自著で、その頭脳派右腕を絶賛している。79年ドラフト会議前に牛島と話した際、配球論から打者心理まで考えた独自の野球論に「お前、ほんまに高校生か? 今すぐコーチになっても飯が食えるで」と法元は驚いたという。牛島は浪商高のエースとして鳴らし、ドカベン香川伸行とのバッテリーでセンバツ準優勝、夏の甲子園もベスト4に進出。捕手出身の監督は投手を放任したので、自然と自分で考えるクセがついた。遊びで投げ始めたフォークボールが決め球となり、雑誌『セブンティーン』で「この夏甲子園をわかせたさわやかスーパーヒーロー」とグラビアを飾り、学校に届いたファンレターは段ボール7箱分、実家は女性ファンからの電話攻勢に悩まされた。ドラフト前、牛島の希望球団は中日一本のイメージが強いが、実は「巨人も候補だった」とのちに本人が明かしている。
 
「巨人は必ず一位に指名するいうとったしね。で、表向きは中日一本やったけど、心の底では巨人に指名してほしかった。ところが、巨人は、口では指名するいうときながら、当日になってやめよって、市立尼崎の林(林泰宏)を指名しよった。もう、このときは、コノヤローってカンジですよ。アッタマに来てね。それ以来、巨人とやるときは、コノヤローッの連続ですよ」(現代84年10月号)

浪商高時代の香川[左]と牛島


 背番号17を与えられたルーキーイヤーの80年4月、ウエスタン初登板の阪神戦では3イニング7失点も「体重70kgじゃボールも軽いやろし。1、2年はファームで鍛えます」とマイペース宣言。ジュニアオールスターでは南海の香川との浪商バッテリーが話題になるも、6月に右ヒジを痛めており、再会を楽しむ余裕はなかった。それでも球団からの期待は大きく、一軍で起用されると2勝を挙げる。人気先行と揶揄する声もあったが、2年目の81年はオープン戦からアピールすると、早くも中継ぎとして51試合に登板。3年目には近藤貞雄監督に「ショートイニングなら適しているんじゃないか」と抑えに抜擢され、82年の『週刊ベースボール』では「ヤング・ストッパー」や「ツッパリ野郎の大変身」という記事が掲載されている。

あえて太々しい態度でマウンドに


マウンドでは度胸満点のピッチングを見せた


 甘いマスクで遊びにかけては右に出る者はいないと噂され、休日の前夜は名古屋から京都までタクシーを飛ばして遊びにいく“朝帰りのウシやん”。中学時代は喧嘩も手慣れたもので、『月刊プロ野球ニュース』には「フェアレディZに乗り、カマロに乗り、ポルシェでブッ飛ばす」なんて“球界の暴走族”と紹介されるやんちゃぶりだ。82年は持病の腰痛に加え、途中ヒジ痛で離脱するも、140キロ台前半のストレートとフルカウントからも投げられる精度の高いフォークボールを武器に53試合で7勝4敗17セーブ、防御率1.40という堂々たる成績を残してリーグ優勝に貢献した。決め球のフォークは指の関節がはずせるようになってから、うまくボールが抜けるようになったという。

 オールスター初出場を飾った83年には初の二ケタ勝利を記録するが、右ヒジの靱帯を痛めており無理を押してのマウンドが続いた。しかし、防御率4.50と不本意な数字に終わると、ヒジへの負担を考慮して控えていた、右打者が尻もちをつくほどの落差の大きいカーブも解禁。84年にはリーグ最多の29セーブを挙げてみせた。年俸3600万円のチーム投手最高給となるが、地元・大阪に喫茶店を開業させ、名古屋にはマンションを購入して1億円もの借金を背負うことで己にプレッシャーをかけ、84年オフには元テレビキャスターの女性との結婚も決断。85年は抑え失敗も目立ち、シーズン途中で先発へ配置転換されるが、プロ初完投・初完封を記録するなど、潜在能力の高さを見せた。

 駆け出しの頃に権藤博投手コーチから言われた、「抑えても打たれても、平然とベンチに帰ってこい」というアドバイスを守り、牛島はあえて太々しい生意気な態度でマウンド上ではふるまった。週べの小林繁との対談では、「“度胸”はポーズだよな」と話を振られ、こう答えている。

「ホントはビビってるんですよ。デビューしたてで、右も左もわかんないころはこわいもの知らずでした。給料安いのに、何千万もとっている人たちを抑えられるわけないやないかといいながら投げてたらね、よかったです。で、給料上がると、抑えなアカンかなと思うようになるでしょ。そうなると体が思うように動かんのですよ」(週刊ベースボール85年5月6日号)

運命の86年12月23日


 華奢な体で目一杯投げてきた勤続疲労はあったが、7シーズンで計273試合に登板。高卒ドラ1投手として順調にキャリアを積み、人気・実力ともにチームを代表する選手となった。しかし、事件は86年オフに起こるのだ。兄貴分と慕う星野仙一の監督就任が発表され、来季は世話になった星野のために投げようと思った矢先のことだった。

 運命の86年12月23日を迎えるわけだ。法元スカウトの著書『ドラマは球場の外にある』(ぴあ)によると、この夜、牛島はプライベートでも親しくしていた法元氏と下呂温泉で合流して間もなく、球団から「至急、名古屋に戻ってくるように」と電話があったという。身体のオーバーホールを兼ねた旅行を取りやめ、車で名古屋に戻ると牛島には非情のトレードが通告される。ロッテの三冠王・落合博満と牛島、上川誠二平沼定晴桑田茂の1対4の交換トレードである。

 今季も3勝16セーブとチームに貢献したじゃないか……。ショックと屈辱のあまり「野球をやめる」と繰り返す牛島だったが、自身をスカウトしてくれた法元氏の「お前の投げている姿が見られないと思うと寂しいなあ」という何気ない一言が胸に刺さった。星野からも電話が入り、「正装して話をしよう。監督としてじゃなく、先輩として、いろんな意味で人間同士の話を。オレもネクタイをして待ってるから、お前もネクタイを締めてこい」と深夜2時に星野の家へ向かった。勝てるチームをつくるために心を鬼にして、「やめるんならやめろ」とときに弟分を突き放す青年監督だったが、24日の中日新聞本社内に200人の報道陣がつめかけた牛島の移籍会見で、会場の片隅からそれを見守り、名古屋駅の新幹線のホームまで見送る星野の姿があった。

落合との1対4のトレードでロッテへ[左から平沼、上川、有藤監督、一人置いて牛島、桑田]


 このとき、星野は39歳、牛島は25歳。お互いに若かった。のちに令和になってから世に出た『中日ドラゴンズ85年史』(ベースボール・マガジン社)の中で、先輩投手の小松辰雄と対談した牛島は35年前の心境をこう振り返っている。

小松「あのトレード、実は最初は俺と(落合の)1対1だったんだ」

牛島「当時はショックで、まだ僕も若かったから少し熱くなった部分もありましたけど、今考えると監督の立場からすれば当然ですよね。落合さんが巨人に行ってしまったら、それは優勝のために何とか阻止するのは当然で」

 なお、87年度版のドラゴンズカレンダーには、2月上川、11月牛島、12月平沼とすでに移籍した3名が掲載されており電撃トレードの衝撃を物語っていた。若きリリーフエースを襲った、あまりに唐突で非情な移籍劇。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない―――。

新天地で熱烈な歓迎


 名古屋での移籍会見で「一番大好きな球団から、一番行きたくない球団に行きます」とすら口にした牛島は、新天地で熱烈な歓迎を受けるのである。エースの村田兆治とは、トレード通告の直前に12球団のゴルフイベントで顔を合わせ、「一緒にできたらいいな」と声をかけられていた。そのときは意味が分からなかったが、200勝を目前にした村田が抑えの牛島の獲得を球団に希望したのだという。新たな同僚選手たちは、25歳でのトレードに「おまえ、何かやったのか?」と冗談交じりに心配してくれた。球団も待望の全国区の人気選手が移籍したことにより、グループ16社の総力をあげて牛島を売り出すことに決定。キャンプ地・鹿児島に届いたバレンタインのチョコの数は、中日時代を大きく上回るチームぶっちぎりトップの1123個を記録した。 
 
 87年4月15日の南海戦では、有藤通世新監督の初勝利を締める、移籍後初セーブ。記念のウイニングボールは指揮官にプレゼントした。右ヒジを痛めてから球速は5キロほど遅くなったが、中日ではほとんど使わなかった覚えたてのシュートとスライダーが意外なほどハマった。通戦100セーブを達成したロッテ1年目は、41試合で2勝4敗24セーブ、防御率1.29という抜群の安定感でキャリア初の最優秀救援投手に輝くのだ。

 88年も25セーブを挙げるが、円形脱毛症になるほどの精神面の疲労とヒジへの負担を心配した有藤監督の「一度気持ちをリフレッシュさせる」意向もあり89年には先発転向。するといきなり12勝を挙げるが、右肩腱の断裂という重傷を負い、長いリハビリ生活に入る。小宮山悟伊良部秀輝といった若手投手に慕われ、牛島の自宅で夫人の手料理を食べながら明け方までピッチング談義に花を咲かせた。同じマンションには、中日時代の先輩で日本ハムに移籍した大島康徳も牛島の紹介で住んでおり、家族ぐるみの付き合いをしていた。中日ではそれほど親交がなかったふたりだが、お互いパ・リーグの関東球団へ移籍したことで、一気に距離が縮まったという。

92年4月7日のダイエー戦で924日ぶりの勝利を飾った


 92年4月7日のダイエー戦、5安打1失点の完投で924日ぶりの勝利。自身は上がりで、マリンスタジアム記者席の最後部で見守っていた小宮山の「よし、勝った、勝った!」という歓喜の叫び声が響いた。背番号27はお立ち台で涙を流したが、この年は3完投で3勝を挙げたものの、血行の循環障害もあり首や背中の痛みに悩まされるなど満身創痍で、93年限りで現役を引退した。まだ32歳の若さだった。中日で7年、ロッテでも7年。通算395試合、53勝64敗126セーブ、防御率3.26。目標の40歳まで現役は叶わなかったが、決して負けたのではなく、戦い切ったのだ。牛島は、リリーフから先発まで経験できて、故障さえも肩を壊したから肩の筋肉の仕組みを学べたと前を向いてみせた。週べ93年11月15日号の引退記念トークでは、あの球史に残る大型トレードについてこう振り返っている。

「トレードだって、あの時は気に入らなかったですけれど、ひょっとして、あのまま名古屋にいて名古屋で辞めていたら、こんなふうに取材されていないかもしれない。セ・パの両リーグでプレーして、大阪から名古屋、そして千葉、東京と、いろいろ見てきましたから、見る目は広がりました」

文=中溝康隆 写真=BBM
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