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ドラフト回顧

西本聖、秋山幸二、石井琢朗…個性派選手を多数生んだ“ドラフト外”物語

 

ドラフト制スタートから1993年までは、ドラフト会議で指名されなかった選手の入団も認められていた。いわゆる「ドラフト外の男」である。

“王道”パターン以外にも


ドラフト外で巨人に入団し、その後、中日オリックスにも在籍して通算165勝を挙げた西本


 1966年から93年まではドラフトに指名されなかった選手にも「ドラフト外」でプロ入りのチャンスがあった。各球団が独自に行う入団テストの合格者、スカウトが足で見つけた地方の隠し玉という“王道”の獲得パターンに加えて、本人と裏交渉をし、あえてプロ入り拒否の姿勢を示させ、ドラフトが終わってから入団させるということも少なからずあったようだ。

 67年、篠崎倉庫から西鉄入りした基満男が、ドラフト外入団の最初の成功者だろう。西鉄、のち大洋に移籍し、通算1734安打をマークした職人肌の二塁手である。制度の隙間を縫ってのドラフト外入団もあった。68年秋、静岡商高を中退した新浦寿夫がドラフト外で巨人入りしたが、新浦はその年、夏の甲子園で活躍した2年生左腕で(定時制から編入)、ドラフトにかかれば、当然上位指名候補だった。しかし、韓国籍だったため、当時の野球協約のドラフト対象「日本国籍を有するもの」に含まれず、複数球団での争奪戦の末、9月7日に巨人が契約した。この年、巨人は同様に韓国籍の鳥取西高・松原明夫を獲得。翌年からドラフト対象に「日本国籍」の言葉が外されている。

 71年、熊谷組から東映入りした江本孟紀もドラフト外の出世組だが、65年の高校3年時にドラフト4位で西鉄に指名され、拒否したことがあり、いわばタイミングを逸しての例といえる。72年大洋入りした高木好一(由一)には、ドラフト外らしい物語があった。相模市役所に勤めていた高木は「遊び半分」で仲間と参加した大洋のテストで注目され入団。のち中軸打者として活躍している。ほか75年、松山商高から巨人に入団した西本聖は、同期でドラフト1位の定岡正二の姿に反骨心を燃やしながら、はい上がっていった不屈の男だ。

 76年にはユニークな形のドラフト外入団もあった。巨人にドラフト3位で指名された駒大の中畑清が自身とともに“駒大三羽烏”と言われた、ほかの2人、平田薫二宮至を入団の条件として巨人に売り込み、ドラフト外での入団となった。翌77年広島入りの大野豊、78年にも中日入りの名二番打者・平野謙とドラフト外に好選手が続く。

寝業師・根本陸夫の手腕で


ドラフト外で西武に入団した秋山は、その後、ダイエーに移籍して通算2157安打、437本塁打をマーク


 79年はドラフト外の“当たり年”ともいえる。江川問題でドラフトをボイコットした巨人は、社会人に進む予定だった明大の鹿取義隆を“強行獲得”、できたばかりの西武は、アマの大物兄弟投手、東京ガスの松沼博久、東洋大の松沼雅之を巨人との争奪戦に勝って、ダブルで獲得した。ほか阪急に松永浩美、広島に金石昭人と、のちのトップ選手の名前が多数並ぶ。

 80年代、ドラフト外を有効に使ったのは、寝業師・根本陸夫がいた西武だった。81年には、八代高の秋山幸二を獲得。秋山は大学進学の意思が強く、ドラフトでは各球団が指名を回避したが、ドラフト会議後、プロ志望を表明し、西武入りを果たしている。

 その後も個性派選手を多数生んだドラフト外だが、最後の大物が89年、足利工高から投手として大洋に入った石井忠徳だろう。のち打者に転向、登録名も石井琢朗とし、名球会入りも果たしている。

写真=BBM

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