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廣岡達朗コラム

辻監督よ、西武を立て直せ! パ・リーグをひっくり返すのだ/廣岡達朗コラム

 

最下位になったのは指導者の教え方が悪いから



 西武時代に教えた石毛宏典(現野球評論家)、辻発彦(現監督)と会った。

 西武ライオンズは昨年、42年ぶりの最下位になった。前回の最下位は1979年の球団創設1年目。根本陸夫さんが監督のときだった。

 その後、82年から私が監督を務め、森祇晶東尾修伊原春樹伊東勤渡辺久信、伊原、田邊徳雄、辻と歴代監督がバトンを受け継いできた。80年代から90年代にかけては黄金時代とも称されたが、伝統は歳月とともに薄まり、ジリ貧になった。

 私の後任の森の責任は重大だ。森は見る目があって私が育てた選手を運用することには長けていたが、教えることができないという致命的な欠点があった。

 それが露呈したのは2001〜02年に横浜(現DeNA)の監督を務めたときだ。1年目が3位、2年目は最下位で辞任。巨人OBが他球団の監督になって失敗するのは“巨人流”をやろうとするからだ。巨人流とは何か。一軍で少し成績を残せなければすぐに二軍行きを通告。戦力が豊富な巨人では取って替わる人材がいくらでも控えていたが、同じことを弱いチームでやったら選手がいなくなってしまう。結局、森は選手を育てることができなかったのだ。

 私が幸いだったのはヤクルト監督就任にあたって、松園尚巳オーナーから「縁があってウチに入団した選手を育てて勝ってくれ」と言われたことだ。その結果、ヤクルトは球団創立29年目にして初優勝、日本一を成し遂げることができた。

 巨人で勝ったからといって名将にはならない。弱いチームを強くしてこそ名将なのだ。

 昨年、西武が最下位になったのは首脳陣の教え方が悪かったからだ。

 栗山巧は今季39歳のシーズンを迎えるが、教えることはまだ多い。打撃で捕手の方向へテークバックして、そこから右足を踏み出したら二段モーションになって真っすぐを打つのが遅れてしまう。私がチームを預かったら、こうすればお前の素材はもっと生きると言って栗山を使う。

 チームを率いる辻監督は84年に入団。西武の黄金期にわれわれが教えた選手だ。だからと言って、当時の野球を基準にモノを教えたら勝てない。目の前の選手を本気で伸ばしてやろうと思って「こうしなさい」「ああしなさい」と指導するのが監督でありコーチの仕事なのだ。にもかかわらず、どの球団の首脳陣も勘違いして選手の自主性に任せてしまう。そのやり方は選手に好かれるかもしれないが、私に言わせれば指導者としての責任のなさを恥じるべきだ。

盟主復活への活路は「やるべきことをやらせる」


 スカウトは素材が良い選手を獲得する。その選手を預かって「俺の言うとおりにやれば、お前の素材は花開く」と言って教えれば、人間はガ然、やる気を起こすのだ。これをしたら罰するという規律もチーム内で打ち出すべきだ。選手を安心させてはいけない。やるべきことをやらせる。盟主復活への活路はそこにしかない。

 私が西武の監督を打診されたとき、西武関連の本を買って読んだ。クリーンなイメージを抱いた。挨拶の仕方から何から規律がしっかりしていた。そうした親会社の社風は球団にも好影響を与える。いまはどうだろう。太っている選手はいる茶髪はいる。これをもう一度、律するのは辻監督の役目ではない。新しく就任した奥村剛球団社長がビシッと言うべきだ。

 辻監督よ、西武を立て直せ。パ・リーグをひっくり返してほしい。

『週刊ベースボール』2022年1月31号(1月19日発売)より

廣岡達朗(ひろおか・たつろう)
1932年2月9日生まれ。広島県出身。呉三津田高、早大を経て54年に巨人入団。大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍。66年に引退。広島、ヤクルトのコーチを経て76年シーズン途中にヤクルト監督に就任。78年、球団初のリーグ制覇、日本一に導く。82年の西武監督就任1年目から2年連続日本一。4年間で3度優勝という偉業を残し85年限りで退団。92年野球殿堂入り。

写真=BBM

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