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ダンプ辻コラム

野球界の歴史の中で12人のうちの1人です【ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ】

 

大洋時代のダンプさん[左]と土井監督


セで初の偉業も達成?


 もう昨年末ですが、日刊スポーツに僕の名前が出ていたのに気づきませんでしたか。え、知らない? そんな簡単に言わず、探してみてくださいよ。日刊なら会社で取ってるんじゃないですか? 確か12月18日の新聞だったと思います。毎日、12球団の記録を1つピックアップするコーナーがあって、あの日はソフトバンク編だったんですよ。

 え? 記事を読んだ気がするけど、気づかなかった? まあ、そうかもしれんですな。取材を受けたわけでもなんでもなく、表に名前があっただけですからね。「2リーグ制後、全試合でマスクをかぶった捕手」というヤツです。甲斐(甲斐拓也)が初めて全試合でマスクをかぶったというので一覧表になっていたんですよ。前も言いましたけど、僕は昭和46年(1971年)、セ・リーグで初めて全試合でマスクをかぶったキャッチャーです。全試合マスクどころか規定打席に行ったのも選手生活で一度だけですけど、それがセ初というのも、何だかツキがありますね。

 パ・リーグを見たら南海で野村(野村克也)さんが何回もやっているんで、表の中で、ぎゅっと押しつぶされたみたいに真ん中あたりになってるけど、ほかは古田(古田敦也ヤクルト)とか城島(城島健司。ダイエーほか)とか……えっと何人かな、数えてみましょうか……。おっ、12人しかおらんですよ。長い野球界の歴史の中で12人のうちの1人です。ダンプも大したもんでしょ(笑)。

 これを見て、さらにうれしくなったのが、その年、盗塁阻止率.429でリーグ1位という数字です。いつもスローイングの自慢をすると半信半疑みたいな顔で見てましたが、これで信じたでしょ(笑)。お、達川(達川光男広島)も載ってるけど、あいつは.297ですよ(笑。87年)。

 その記事の中に、甲斐がマスクをかぶったことでソフトバンクのチーム防御率3.25を導いたと書いてありましたが、昭和46年のデータを調べてもらったら、阪神は2.76らしいです。どうですか、すごいでしょ。あのころ僕は田淵(田淵幸一)がいたから第2捕手みたいなもんだったんですが、あいつが病気で正捕手が回ってきた。あまり大きな声で言うと、田淵が怒るかもしれんけど、あいつじゃなく僕に捕ってほしいというピッチャーがたくさんいました。まあ、当時は防御率が良ければ、全部ピッチャーがいいからになって、誰もキャッチャーのことなんか褒めてくれんかったですけどね。

 でもね、大洋時代の終わり、関根(関根潤三)さんが監督のころは僕も言われたんですよ。いつだったか忘れたけど、どの捕手が守ってるときの勝率がいいか計算した記事があって、僕のときはかなりよかったらしいですよ。関根さんも「辻が出ると相手は嫌がる」とマスコミに言って、試合の最後を締めるリリーフキャッチャーとして、ちょっとだけ話題になったことがあります。評論家も言い始めて、別所(別所毅彦)さん(元巨人ほか)が週刊誌の記事で、「俺はキャッチャーをほめたことはなかった。俺がいい球を投げたら打たれんからだ。でも、俺が大洋の試合を見ていて、金沢(金沢次男)がピンチになったことがある。そこで辻が出て、マウンドに行ったらピッチャーが笑って球が来だした。キャッチャーの力を初めて感じた」と書いてあった。

 まあ、記憶の中なんで多少、文章は違うかもしれないけど、褒めてもらったことは確かです。このときはなぜかバッティングも良くなって、ジャイアンツの連中が「何があったの?」ってびっくりしていました。

関根さんの天の声


 関根さんとの話で思い出したことをもう一つ話しておきましょうか。「遊ぶな」と言われた話です。

 たぶん、前に話したことがあったと思うけど、巨人の松本(松本匡史)に走られまくって、いらいらしていたときのことです。

 引退したあと、野村さんの書き物を読んだとき、阪急戦で福本(福本豊)の盗塁を阻止するとき、いろいろな作戦を立ててプレーしたと書いていました。例えば、トップバッターの福本が走ったときは、次の二番打者・簔田(簔田浩二)は振ってこないというデータを見つけ、ステップをいつもより大きくし、より前から投げたそうです。これは巨人の森(森祇晶)さんも日本シリーズで福本対策としてやっていたそうですね。

 そこに書いてあって、僕もやったのは、前の走者を出しちゃうことです。松本が一塁に出ても前の走者が二塁にいたら走れんでしょ。バレたらあちこちから怒られるので、味方の内野手にも黙って、投手にだけ試合前、「松本を盗塁させない状況をつくってくれるとうれしいな」と冗談めかして話をしてました。そのときは二死一塁で打席に松本が入り、うまいことバレないように四球で出塁させ、これでもう松本に走られることはないと思っていました。

 大洋は確か2対1で勝っていたと思います。次は巧打者・篠塚(篠塚和典、当時は利夫)だった。彼はいいバッターですが、いろいろ苦労してゴロに打ち取った。でも、それが投手の頭を越え、内野安打になってしまったんです。

 いや、あせりました。いくら松本に走られたくないと言っても、試合に負けたら仕方ないですからね。そこからさらにダンプのコンピューターをフル回転させ、次の打者を抑え、チェンジ。やれやれと思ってベンチに戻って腰を掛けたら、そこで天の声です。

「ダンプ、遊ぶなよ」

 と関根さんがボソリ(笑)。完全にバレていたようです。見える人には見えるんですね。

 ただ、関根さんは、僕だけに聞こえるくらいの声で言ったんで、こっちが少し冷や汗をかいただけで、周りは気付かず、試合はそのまま勝利しました。いやはや、いろいろ面白い人でしたよ。

 大洋では、結局、関根さんにクビにされたんですが、それまで秋山(秋山登)さん、別当(別当薫)さん、土井(土井淳)さんが監督でした。別当さんは現役時代、天才打者と呼ばれた方でしたが、ものすごい勘がいい。ゲーム中、後ろに座っている別当さんが「あ、次の球、気をつけろ」とか「ここでインコースに投げたらホームランだね」とか話しているのが聞こえるんですが、それが面白いくらいに当たりました。

 昭和54年(79年)に別当さんでチームが2位になって勢いがついたところで、ヘッドコーチをしていた土井さんが監督になりました。昭和35年(60年)に大洋が日本一になったときの伝説のキャッチャーです。話をしている中で僕も勉強になることがたくさんあったんですが、監督になってからはコーチに任せちゃったというか、自分の色を出せないうちに4位、6位で、2年でやめられてしまった。監督というのも楽な仕事じゃありませんね。

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