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シリーズ「沖縄と野球」

先人が思いを紡いできて誰もが認める野球王国となった沖縄――沖縄と高校野球/シリーズ「沖縄と野球」

 

4年ぶりの名球会オールスター戦が沖縄で開催される。沖縄本土復帰50周年、那覇市市制100周年の記念でもある名球会ベースボールクラシック2022沖縄開催を機にあらためて沖縄と野球の、歴史や関係について掘り下げる連載コラム。第4回のテーマは「沖縄と高校野球」だ。

沖縄高校野球史において初めて優勝旗を持ち帰ったのが1999年のセンバツで優勝した沖縄尚学高。歴史を知る県民にとっても感慨ひとしおだっただろう


 那覇市奥武山の「沖縄セルラースタジアム那覇」には、沖縄野球史に関するさまざまな資料を展示する博物館が常設されている。入口を入ってすぐ目に飛び込むものが、円柱のクリアケースに貯蔵された茶色いボール。それは、1958年の第40回夏の甲子園で沖縄代表として出場した首里高が敦賀高(福井)との一戦で実際に使ったボールで、捕手の糸数昌孝さん所有のものを展示している。初勝利とはならなかったが、この硬球こそが沖縄の高校が初めて甲子園の土を踏んだ貴重な第一歩である。

 本連載で触れたとおり、沖縄に野球が入ってきたのは1894年とされる。大正時代には旧制中学時代の南九州大会で一中(現・首里高)がいきなり優勝する快挙でその名を轟かせると、翌年から全国大会出場をかけた九州予選に沖縄から初めて参加が許された。しかしこの時期の沖縄は極度の経済的窮状で、主食の米や芋を口にできず、毒性が含まれるソテツの実や幹を調理して飢えをしのいだ「ソテツ地獄」が押し寄せたころ。沖縄大会で優勝校は決まるも遠征資金がなく、4大会続けて九州大会不参加という厳しい時代も過ごした。景気が回復し、いざ出場となったはいいが、そのころには九州との実力格差は広がり、中には数十点差をつけられる試合も。1勝すれば奇跡とも言われていた当時は、全国出場の壁はとてつもなく高かった。

 初めて全国の舞台に立った前述の首里高は、九州大会を経ない特別枠での出場だった。このときサポートしたのが第3代日本高野連会長だった佐伯達夫氏。離島・沖縄のハンデキャップを知って物心両面で援助し、史上初めて全都道府県のチームが参加した第40回の記念大会で、米国統治下だった沖縄にも当時副会長の佐伯氏の計らいで出場枠が与えられた。その千載一遇のチャンスに沖縄大会は燃えに燃え、準決勝では当時2年生の強打者・栽弘義(のちの豊見城高、沖縄水産高監督)のいる糸満高、そして好投手・石川善一を擁する石川高に決勝で勝った首里高が沖縄初となる全国切符を手にしたのである。

 のちに、広島阪神でプレーした安仁屋宗八を擁する沖縄高(現・沖縄尚学高)が全国1勝をかけて戦うも広陵高(広島)に敗れ、その2年前の春に出場した那覇高に続き沖縄勢は何度も全国の壁に跳ね返される。しかし63年、ついにその壁を乗り越えた。歴史の1ページを記したのは、一中時代から沖縄野球の中心にいた首里高だった。強打を誇る日大山形高打線に一歩も引かない積極野球で食らいつき、ラッキー7で逆転に成功。4対3で勝利し、初めて流れる校歌を選手も応援団も涙を拭いながら聞いていた。

 68年、我喜屋優(現・興南高監督)が主将を務めた興南高のベスト4をはじめ、豊見城高、沖縄水産高で手腕を振るい強豪県としての地位を確立させた栽監督の存在。そして99年、沖縄尚学高が県勢初となる全国優勝を成し遂げて紫紺の優勝旗が海を渡ると、2010年には興南高が春夏連覇と、沖縄は誰もが認める野球王国となった。ただその事実は、まず九州の壁に立ち向かい、それを越えても簡単に手が届くものではないと十分、分かっていた全国1勝を決してあきらめなかった先人の思いが紡いできたものの上にあることを忘れてはならない。

文=仲本兼進 写真=BBM

「名球会ベースボールクラシック沖縄2022」
日時:2022年12月10日(土)13:00
会場:沖縄セルラースタジアム那覇
中継放送・配信:OTV沖縄テレビ放送、全国インターネット配信(予定)

【入場券発売】
先行発売:10月28日(金)12:00〜
一般発売:11月5日(土)10:00〜
当日券販売:12月10日(土)10:00〜

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