週刊ベースボールONLINE

平野謙の「人生山あり谷あり、感謝あり」

平野謙コラム 第31回「『何でできないんだ!』は絶対に言わなかったコーチ時代」

 

二軍監督時代のエースだったのが、小林宏之


一塁コーチの貴重な経験


 これが新年一発目ですか……。連載の話をもらったときは、10回くらいという話でしたが、ずいぶん続きましたね(笑)。そうそう、最初は、僕が2020年の東京オリンピックの聖火リレーに決まっていたんで、そんな話で終わろうかと言っていましたっけ。それが延期になって、今年もどうなるんですかね。ほんと、ずっとコロナ、コロナで嫌になるな。

 技術物(ゼミナール)の仕事ももらったけど、評判はどうなんですか。外野守備は地味だから反響が少ない? いやあ、それは偏見だな(笑)。実は、プロでも結構、「外野の守備は誰でもできる」「外野手は打てれば、エラーしない程度でいい」と思っている人がいて腹が立つんですが(笑)、本当は、かなり奥深いものですよ。漠然と来た球を捕るか、考えて守るかで、まったく違うのが外野守備です。そのあたりは、またゼミナールで説明していきましょう。この連載より長く続きそうですしね(笑)。

 1回空いたようですが、前回は、1998年までのロッテの一軍外野守備走塁コーチ時代の話をしました。このとき、試合中は一塁コーチをメーンにやっていたと言いましたよね。僕は現役時代、ほぼほぼ外野だったから、このときの経験が、あとあと、すごく役に立ちました。

 一塁コーチは投手のクセとか外野の守備位置とか見るじゃないですか。もちろん、僕も現役時代、一塁走者として同じ方向から見たけど、コーチだと、また別の視点で観察ができて、すごく勉強になりました。あと、相手だけじゃなく、味方のバッターランナーにしても一塁に走ってくるときの技術や、性格もそこで分かるでしょ。必死に来るか、ダメだと思ったら早々に手を抜くかとかね。必ずしも一生懸命に走るのがマジメじゃないと思うけど、その選手に指導する際の参考にはなりました。

 現役時代、ロッテの選手やコーチに「チームが強くなるために、こうしたらいいんじゃないかな」という話をしたけど、なかなか響かなかったというのは前も言いましたよね。比べるのが黄金時代の西武じゃ、ロッテの選手もかわいそうだったかもしれませんけど、ずっと、もっと食いついてきてほしいなという思い、それが届かない挫折感みたいなものはありました。

 コーチ時代にも失望感がなかったとは言わないけど、やっぱり役割があるじゃないですか。ベテラン選手としてチームを引っ張っていこうと思ったのが現役時代だけど、コーチとしては外野守備走塁が担当だったから、その分野で個人個人のレベルを上げるのが、僕の仕事だと思ったし、そこは手を抜かず、一生懸命やったつもりです。

 選手が聞きにくるパターンもいろいろで、好調なとき聞いてくる選手もいれば、スランプのとき聞いてくる選手もいた。好調な選手は、自分の状態がいいというのを他人の目で確認したいというのもあったと思います。そうなると、やはり掛ける言葉も変わってきますよね。僕が面白いと思ったのは、ヒントを与えると食いついてきて、その先を自分で何とかしようとする選手です。そういう選手は間違いなく、伸びました。

監督の権利は昼寝?


 相談に関しては、バッティングも多かった、というか、よく考えたらそちらのほうが多かったかもしれないですね。選手も外野守備の重要性を感じてなかったのかな(笑)。いきなりコーチじゃなく、選手から上がったこともあるでしょうね。選手時代から後輩にバッティングの話もしたんで、その延長戦上で相談に来るというのかな。

 バッティングのコーチはほかにいたし、バッティング練習で、直接言うわけにはいきません。実際、現役時代の打撃成績も大したことはない。守備とバントの選手と思っていた若い選手もいたと思います。だから、ゲームが終わった後とかに「きょうは惜しかったな。あそこをああすれば変わるのにな……」とか、におわせて(笑)、向こうに「どこですか!」と質問させるように仕向けました。それでアドバイスの仕方も「こうだ」とか「こうしろ」じゃなく、「こうやったら打てるようになるかもしれないよ」と、押しつけじゃない言葉にしていたつもりです。

 これは僕が現役時代、コーチや先輩から「何やってるんだ!」とか「何でできないんだ!」と言われるのが一番嫌だったこともあります。できないことをできるようになるために、みんな一生懸命やっているんですからね。

 99年から3年間がロッテの二軍監督です。二軍でできたのはよかったです。僕は、一軍でやりたいという気持ちはまったくなかったから。まだ自分も若かったこともあって、選手と一緒に汗を流し、一緒に勉強するのがすごく楽しかった。

 試合の采配はありますけど、二軍だから、練習では、ほんとコーチと同じようなものですよ。違うとしたら居眠りできることかな(笑)。浦和球場のグラウンドに入ったところにベンチが置いてあったんですが、ポカポカした陽気だと、ひなたぼっこみたいな感じになって、座ったまま寝てしまうことがあるんですよ。ただ、うたた寝しても誰も文句を言わなかった。それだけだね、監督になってよかったのは(笑)。

 二軍監督の一番難しいところは、育成と勝利のバランスかな。もちろん、育成の場ではあるんだけど、勝つ喜び、負けた悔しさを知らないと、一軍に上がったとき、チームプレーより個人プレーに走りやすい選手になるんですね。僕はチームが負けても自分が3安打したらニコニコしてるような選手にはなってほしくないな、と思って指導していたつもりです。

 1年目はイースタン4位。それまでロッテのファームはなかなか5割にも行かず、「5割くらい行こうぜ!」と言った記憶があります。一応、貯金1で5割はキープして終わったんですが、最後、確か勝てば3位という試合で、先発の小林宏之がボコボコに打たれて負けたんですよね。

 あのころ、投手は宏之、小野晋吾、薮田(薮田安彦)とかがいて、最後の年に渡辺俊介が入った。野手は里崎(里崎智也)がいたな。当時、息子を練習に連れてきたことがあって、頼んだわけじゃないけど、宏之あたりが遊んでくれたこともあった。ほんと性格のいい純粋な選手がたくさんいて、何だか家族みたいな雰囲気もありました。サト(里崎)? あいつは今と同じで、ちょっと理屈っぽかったかな(笑)。

PROFILE
ひらの・けん●1955年6月20日生まれ。愛知県出身。右投両打。犬山高から名商大を経て78年ドラフト外で中日入団。88年西武、94年ロッテに移籍し、96年限りで引退。俊足堅守の外野手で86年に盗塁王、リーグ最多犠打は7回を誇る。通算1683試合、1551安打、53本塁打、479打点、230盗塁、打率.273。

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング