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第1回 日本運動協会 vs 大日本東京野球倶楽部|「対決」で振り返るプロ野球史

 

プロ野球の歴史は1934年12月26日に開かれた大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)の創立総会をもってそのスタートとするが、歴史は長く、これをあらためて振り返ってみるのも意義あることだろう。この歴史をここでは「対決」を軸に書いてみたい。単なるクロニクルでは、興趣、球趣に乏しくなると考えたからである。第1回は、実は34年よりかなり以前にプロ野球が誕生していた、という話──。

2つの協会チームの不運……


日本運動協会を立ち上げ、のちにイーグルス創設に尽力した押川清[後列左から3人目]と河野安通志[同右から2人目]の若き日の姿[1907年]。河野の左が早大・安部磯雄野球部長


 1905年、早大野球部が日露戦争のさなかに破天荒な渡米遠征を行ったことは、野球史に少し詳しい人なら知っているだろう。このメンバーの中に、アメリカでのプロ野球の繁栄を知り、日本にもいつかプロ野球を、の夢を持ち帰った2人の選手がいた。それは内野手の押川清と投手の河野安通志(あつし)。

 そこから15年後の1920年、2人は、かつての早大の仲間を発起人に加え、合資会社「日本運動協会」を設立した。それまで大毎球団のようなセミプロチームはあったが、日本運動協会のような、本格的な野球を職業とするチームの誕生は初めてだった。同協会は、そのプレーをファンに披露するだけではなく、グラウンドの設計・工事、スポーツ用品の製造・販売までも手がけようという、まさにアメリカ的な発想に満ちた組織だった。もちろん専用球場を持ち(芝浦球場)、隣接の敷地にはクラブハウス、テニスコート、陸上トラック、フィールドが作られ、これらを利用できる会員制の「日本運動倶楽部」も設立された。球場にはライオン歯磨などの広告が入った。木造スタンドだったが、外野の土手の見物席も加えると2万人ほどを収容できたというから、押川、河野のプロ野球にかける熱意は半端なものではなかった。

 ユニークなのは、選手には、実技練習だけではなく、座学が課されたことである。押川は、有名な小説家・押川春浪の弟で、父は仙台の東北学院(現東北学院大学など)の創立者・押川方義。河野は横浜商から明治学院を経て早稲田に進んだ。読書と英語、これが2人のバックボーンだったので、練習後、河野は商業簿記や英語を教えた。押川は野球理論や、いわゆる一般常識の授業を受け持ったという。

 日本運動協会の第1期生は14人。見習選手と本選手があり、本選手の最高月俸は100円。これは当時の大卒の初任給よりかなり多かった。

 こうしてスタートした協会だが、最大の問題は、当然のことだが他に協会並みの組織を持ったプロ野球チームがないことだった。相手は先の大毎や2人の母校早大、実業団チームなどだったが、その中に天勝野球団というプロチームもあった。もちろん、協会のような本格的なプロではない。その両チームは23年6月21日、朝鮮の京城(現ソウル)で初対決。これは5対6で惜敗。24日の2戦目は3対1で協会の勝利。日本に戻った8月30日、芝浦球場での第3戦は5対1で快勝。協会チームは本格プロとしての面目を施した。これをプロ同士の初の試合とみなす人もいる。

 しかし、これからというときに、不運に見舞われる。9月1日、あの関東大震災が襲ったのである。グラウンドはメチャメチャになった(いわゆる液状化)。たとえ、無事だったとしても野球どころではない。球場は救援物資配給の基地にされた。東京市などは、当分球場を返すつもりはなく、押川と河野は協会の解散を決意した。24年1月だった。

 このチームに救いの手を差しのべたのが阪急電鉄の総帥・小林一三だった。旧知の河野に「全員を引き連れて宝塚に来ないか」の誘いがあったのだ。河野は熟慮の末、これを受け入れた。宝塚には1万人収容の野球場があった。この新しいチームは「宝塚運動協会」と名付けられ、24年3月30日、関西大学と初試合を行い4対1で勝利。幸先良いスタートを切った。このチームの主将が山本栄一郎投手兼内、外野手だった。要するにどこでもやれた万能選手。彼は、のちに大日本東京野球倶楽部の選手になる。

 それはともかく、宝塚協会はよく頑張り、6年で365試合をこなし、知名度も上がった。しかし、経営状態は厳しく、好ライバルの大毎球団が29年3月に解散すると、相手を失った協会も7月31日に解散した。この29年、東京六大学野球が異常な盛り上がりを見せ、早大・小川正太郎と慶大・宮武三郎の対決が日本中の話題を呼んだ。六大学に抗するのは、しょせん無理な話。時機が悪かったのだ。

好機をつかんだ正力松太郎


第1回渡米遠征から帰り、九州遠征中の巨人軍(博多駅)。日本運動協会の生き残り、山本栄一郎は前列右端。アメリカ帰りのハイカラな雰囲気が漂う。沢村栄治は後列右から2人目。中央奥の長身がスタルヒン


 逆に、時機をつかんだのが大日本野球倶楽部だった。31年と34年の大リーグ選抜チームの来日で、日本の野球ファンは、アメリカのプロ野球に目を開かれた。連日満員の球場に目をつけた読売新聞社長・正力松太郎はプロ野球チームを作ることを決意した。34年の全日本チームを主体にして大日本東京野球倶楽部が創立された。三原脩水原茂苅田久徳といった六大学出の大スター、沢村栄治、スタルヒンといった中等野球のスターを集めた。この中に先の山本も加わっていた。おそらく元プロ野球選手としての経験を買われたのだろう。このチームを作り、動かしていたのは(つまりGM)、29年に早大監督を務めていた市岡忠男だった。

 正力は、「六大学」を巧みに利用したのだった。さらに、阪神電鉄、阪急電鉄などにプロチームの結成を呼び掛けた。かつての2つの協会が、相手チームを欠くことで、自然消滅していった轍(てつ)を踏みたくなかったのである。阪神は甲子園という大球場を持つ。阪急は小林一三が宝塚協会を運営していたのだからプロ野球には前向きだ。この正力の呼び掛けが、最終的には7つのプロ野球チームを誕生させることになった。これで立派なリーグ戦が可能になった。

 それは先の話として、正力は、35年、大日本東京野球倶楽部を渡米遠征させるという壮挙。これはプロ野球にステータスを与える意味で大きかった。先の2協会は、朝鮮、中国大陸に遠征はしても、アメリカには手が届かなかった。正力は2協会がやらなかったこと、やれなかったことを次々に実現させ、現在のプロ野球の礎を築いたのである。小林は、36年阪急を創設、押川と河野は37年イーグルスを立ち上げ、プロ野球に参入。その意味では日本運動協会と宝塚運動協会は、新しいプロ野球の中で生き続けたと言えるのだ。(参考文献=『阪急ブレーブス50年史』)

文=大内隆雄

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