奇しくも第1回ドラフトが団塊の世代のプロへの最初の窓口に。好素材ばかり
帽子を飛ばさんばかりの力投を見せる1年目の堀内
第25回はドラフト制スタートの少々疑問符のつく部分をつついてみたが、この第1回ドラフト(1965年)には制度的なこととは別に、プロ野球史上、大変な意義と意味がある。それは、このドラフトでいよいよ、いわゆる団塊の世代がプロ野球に登場したことである。1947年〜49年に生まれた(正確には、47年の早生まれは除き、50年の早生まれを加えるらしい)。戦後のベビー
ブーマーたちで、その数は700万人を軽く超える。
もちろん、高校中退ですでにプロ入りしている団塊の世代もいたが(例えば、元
阪神ほかの
古沢憲司)、それはごく少数。この第1回ドラフトで指名された高校3年生は、84人(入団拒否、進学、中退を含む)。その中には、
堀内恒夫(甲府商-
巨人)、
鈴木啓示(育英-近鉄)、
木樽正明(銚子商-東京)、
水谷実雄(宮崎商-
広島)、福島久(PL学園-広島)、
谷沢健一(習志野-阪急)、
小田義人(静岡-阪急)、
加藤俊夫(仙台育英-大洋)、
江本孟紀(高知商-西鉄)、
藤田平(市和歌山商-阪神)、
森安敏明(関西-東映)、
黒田正宏(姫路南-阪急)らの名がある(球団名は交渉権獲得球団)。
これはやはり、数のなせるワザだろう。これだけの好選手が集まる年はそうあるものではない。タイトルホルダーが6人。もちろん、この年指名されなかった47年度組で、のちのドラフトでプロ入りして大成した選手もかなりいる。
若松勉(北海-電電北海道-
ヤクルト)、上田二郎(南部-東海大-阪神)、
佐藤道郎(日大三-日大-南海)、
門田博光(天理-クラレ岡山-南海)、
福本豊(大鉄-松下電器-阪急)らだ。こちらもタイトルホルダーが目白押し。
筆者は49年12月生まれだから団塊の尻尾に位置するのだが、学校時代を思い出すと、小、中、高と、とにかくスシ詰め教室の記憶しかない。1クラス55人ぐらいいて、後ろの列のイスはカベにくっつかんばかり。だから教室ではヨコの移動は不可能で前後のタテの移動しかできない。最前列の子どもも先生のツバを浴びるぐらいに、こちらも教壇にくっつかんばかり。こういう中で12年間暮らすと、やはり、何か変わったことをやらないと、先生に認めてもらえない、何とか目立ちたい、という発想が身についてしまうものである。数の中に埋没してしまったら終わりだ──。
堀内は1年目に開幕13連勝、44回無失点、鈴木は2年目に21勝、最多奪三振
21勝をマークした2年目の鈴木。どこまでも真っ向勝負だった
47年組も同じような発想でプロ野球の世界を生き抜こうとした。堀内は、多摩川グラウンドの自主トレ、宮崎キャンプで他の巨人の投手を見て「なんだ、オレが一番速いじゃねえか」とうそぶいた。ドラフト同期で慶大の主将だった
江藤省三(のち慶大監督)は、こう言う。
「何をやらせても堀内が一番うまいのだからイヤになってしまう。けん制、ピックオフプレー、ランダウンプレー……。ボールのスピードも堀内が一番あったと思う」
鈴木は、投手としては珍しい背番号「1」を選んだ。いまだって珍しい番号である。鈴木にも「オレが一番」という強烈な自己主張があった。だから打たれても、打たれても真っすぐを投げ続けた。「ボール投げてかわしてるヒマなんかないんや」とストライクで勝負するのが鈴木の男の美学だった。で、10勝12敗、6完投、防御率3.19。いまなら十分に新人王の数字だが、この年のパ・リーグは該当者なし。森安も11勝11敗、防御率3.03、初登板初完封の快挙を成し遂げているのに選ばれなかった。
当時は15勝が新人王の最低ラインと言われていたから(前年の新人王、西鉄・
池永正明は20勝10敗)、まあ、ムリではあったのだが、2人の言動と、その強気一点張りの投球は、新聞記者たちの反感を買ったのかもしれない。とにかく、団塊の世代は小さいころから傍若無人だった。ただし、48年生まれの
山田久志(元阪急)が「我々はタテ社会で育った最後の世代」と言うように、自分で納得したら進んで服従するという面もあった。
西本幸雄元阪急監督の下で、その手足となった団塊の世代の選手を見ると、それがよく分かる。
堀内に戻ると、彼は簡単に納得するタイプではなかった。プロ野球初登板初勝利という素晴らしいデビューだったのに、すぐに二軍落ち。「コントロールが悪いというのが、その理由だったけど、どうかねえ」と堀内は苦笑するのだが、この男のすごいところは、一軍に戻ってきたら、3連続完封勝利。リリーフで4連勝としたあと、またも完封勝利。恐るべき18歳だった。この年16勝2敗。当時の最多記録となる開幕から13連勝。44回連続無失点、55回1/3連続自責点ゼロ、デビューから70回被本塁打ゼロというとてつもない記録を作った。もちろん新人王。
合宿の門限破りの常習犯で、
武宮敏明寮長に竹刀でこっぴどくたたかれても、翌日の試合で完投勝利。勝利投手賞の高級ウイスキー2本を、無言で武宮の前にドン、なんてこともやった(これは武宮から直接聞いた話)。堀内は団塊の世代の、まさに旗手だった。
新人王を獲れなかった鈴木は翌年早くも21勝(13敗)。最多完投(19)、最多無四球(10)、最多被本塁打(36)、最多奪三振(222)という数字は、「ムダ球は投げん。ホームランの数は男の勲章や」と言ってのける鈴木の投球美学を見事に表していた。
堀内、鈴木らの登場で、プロ野球は、新しい世代が作る時代に突入した。
文=大内隆雄'