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第27回 西本幸雄監督 vs 選手・球団|「対決」で振り返るプロ野球史

 

西本のキャンプでの第一声は「選手に甘い顔は見せん!」。ナイター後も練習


67年10月10日、西宮での西鉄戦後、阪急ナインは球場を一周。先頭が西本監督


 第25回で「親会社がしっかりしている近鉄、阪急の弱さは不可解だった」と書いたが、実はこの2球団、たった一人の男によって強チームに変身を遂げるのである。その男とは、西本幸雄

 西本は、63年に阪急の監督に就任する。4年間は、最下位、2位、4位、5位と浮いたり沈んだりの不安定な戦いが続いたが、67年に一気にブレーク、2位西鉄に9ゲームの大差をつけて初優勝。ここから3連覇を達成して勇者は本物の勇者になった。西本は、74年、近鉄監督に転じるが、2年目の75年に後期優勝を達成。50年のチーム創設以来、近鉄は初めて「優勝」と名のつくものを手に入れた。プレーオフでは阪急に敗れたが、4年後の79年、前期を制し、プレーオフでも阪急を破ってついにパ・リーグの覇者となった。近鉄は翌80年も連覇。猛牛はようやくその名にふさわしいチームになった。

 阪急では初Vまで5年、近鉄では6年かかっているが、これは西本も球団フロントも、粘りに粘り、耐えに耐えた結果だった。もちろんくじけずについていった両チームの選手たちのがんばりも立派だった。近年、こういう長期計画のチーム強化というのはほとんど見られなくなってしまった。とにかく球団、監督、選手の3者がすぐあきらめ、すぐ飽きて、すぐ放り出すという、地に足がつかず、落ち着きのないプロ野球になっている。もう少しどっしりと構えろ、と言いたくなるのだが、20年ほど前、「選手はいいよな、そう簡単にクビにならんもん。オレは3年で結果出せなかったらクビだぜ」というある新監督の言葉を聞いたとき、「こりゃもうプロ野球が変わってしまったのだ」とタメ息が出たものである。

 それはともかく、プロ野球で4番目に古い老舗・阪急は、もういい加減に優勝しないと、創設者の故・小林一三に顔向けができないというところまで追い詰められていた。勝たせる指揮官が欲しい!そこで白羽の矢を立てたのが60年に大毎を優勝に導いたが、当時の永田雅一オーナーと衝突して辞表をたたきつけて去った西本だった。62年にコーチで招いた。もちろん監督就任は予定のコース。翌63年、西本は早くも監督に就任した。

 キャンプでの西本の第一声は「選手に甘い顔は見せん!」だった。とにかくケガをするリスクを承知で、ムチャとも思える猛練習で突き進んだ。シーズンに入ると、西宮球場での試合が終わっても照明を消さずに、そのまま選手に練習を課した。古手の選手は「アホか」と西本に露骨に反抗した。そういう選手にはつい手を出してしまった。これは愛弟子の加藤秀司(69年入団)から聞いた話だが、「西本さんは口や手だけでなく足まで出したよ」。とにかく野球に熱中しだしたら、見境がなくなる男だった。それほど真剣に野球に打ち込んだのだった。しかし、1年目は最下位。

不信任票が出て辞任決意も説得に翻意、5年目は現場と会社、ファンが一体に


 2年目の64年は、スペンサーというメジャーの一流二塁手を得て、西本と選手も彼から得たものは大きく、他チームへのコンプレックスが消えていった。2位に躍進。3年目の65年は、ヘッドコーチに青田昇を迎えた。62、64年と阪神コーチとして藤本定義監督を支えて2度のVに導いた名コーチだ。「今年は絶対優勝を狙う」と意気込んだ西本だったが、4月に投手陣総崩れで出遅れると(4月は3勝9敗。何とエース米田哲也が先発して18失点という試合もあった)、そのままで終わってしまった。4位。

 さすがの西本も、4年目の66年は、迷いが生じた。キャンプでは「何よりも必要なのは心の問題だ。私は選手の胸の内に訴えたい」と選手を鼓舞したが、この言葉は自分に向けたものでもあった。この年、米田が25勝で最多勝。しかし、打線がピストル打線で本塁打がリーグ最少(89)。かつての左のエース・梶本隆夫が15連敗の泥沼に。とにかくちぐはぐなシーズンで5位に沈んだ。西本は思い詰めたような行動に出た。それが、いわゆる“信任投票事件”。

 10月14日、選手全員を西宮球場2階の会議室に集め、便せんを4つに切った投票用紙を渡し、信任なら○、不信任なら×をつけろと言う。面食らった選手たち。白票4がそれを物語っていた。不信任票は? 7票あった。

「白紙も不信任とするとオレを信じてくれない選手が11人もいる。やっていく自信がない。やめさせてもらう」と西本は言った。球団は必死に慰留に努めたが西本の辞意は固い。小林米三オーナーが直接乗り出し、懸命に説得。西本は19日に辞任を撤回した。他の監督ならポーズに取られそうな信任投票だが、西本という人間を知る選手たちは、青くなった。本気だ!我々が甘かった、と。24日からの秋季練習は、西本と選手たちの火花を散らす凄絶な戦いの場となった。

 雨降って地固まる、といったレベルではない。67年は、まるで別のチームの戦いになった。7年ぶりの開幕戦勝利スタート。4月は9勝4敗1分の好ダッシュ。5月は勝ったり負けたりだったが、6月からはほぼ3勝2敗ペースで乗り切り123試合目の東映戦を戦っている途中、西鉄の敗戦で、ついにチーム創設以来の初優勝を手にしたのだった。75勝55敗4分、勝率.577。全チームに勝ち越す完全優勝だった。チーム打率、チーム防御率ともに2位。投打のタイトルホルダーは打者はなし。投手は足立光宏が最優秀防御率(1.75)、石井茂雄が最高勝率(.692)。要するに負けないキッチリとした野球の実践だった。

 西本の体は10度も宙に舞った。“5年間戦争”の間に、選手たちは西本の軍門に降っただけでなく崇拝者になっていた。「優勝は現場に限らず、親会社、球団関係者、ファンが一致団結したから。一つの目的に向かった力を結束したのが大きかった」と西本は語ったが、これは現在でも変わらぬプロ野球チームの理想の姿である。

文=大内隆雄

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