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【大島康徳の負くっか魂!!】第44回「仙さんからの電話」

 

87年、自主トレに顔を出した星野新監督。後列中央が僕です


新記録も「うれしくない!」


 この連載が、ちょうど星野仙一さんとの話になっていたのは、何かのめぐり合わせでしょうか。信じられない知らせに、ただただ茫然としています。

 1987年、星野監督1年目の話をもう少し書きたいと思います。

 実は僕、この年に代打ホームランのセ・リーグ記録を作ったらしいんです。また、“らしい”ですいませんが、まったく覚えてないんですよ。

 マイ担当のさかもっちゃんの話では、前回紹介した金沢での同点ホームラン(7月8日阪神戦)がタイ記録の15本目で、9月17日の大洋戦[ナゴヤ]が新記録の16本目だそうです。ただ、もう巨人の優勝がほぼ決まっていた時期ですし、なんの喜びもなかった。いま聞いても、「あ、そう」くらいのものです。

 当時の『週べ』に僕のコメントが載ってたので、引用します。

「そんな記録なんかいらんよ。俺はうれしくもなんともない。ホームランを代打でしか打てない自分が悲しいよ……」

 野村克也さん並みにぼやいてますね。実際、キツい時期でした。

 もともと僕は代打が好きじゃなかったんです。若手時代の76年、代打で日本記録のシーズン7本塁打をマークしたときの回でも書きましたが、中日時代は、チャンスで使われる代打の切り札ではなかったこともあります。若手時代は成績にむらがあって、打てなくて先発から控えに回され、そこでホームランを打って先発に回って、また打てないから外れる……の繰り返し。

 この年も、単純に仙さんの構想から外れて、代打に回っていただけです。チャンスはもらったんで、応えられなかった自分が悪いんですけどね。ベンチで歯ぎしりするほど悔しい思いをしながら試合を見ていたことを覚えています。

 移籍した日本ハム時代の終盤に代打に回ったときは、「4回出ても打てないヤツの代わりに打つんだから打てなくてもともと」という気持ちになれたけど、中日時代はそこまで開き直れなかったですね。特にあの年は優勝争いもしていたし、尊敬する仙さんが監督ですから。

 それに代打は、体とメンタルをいかに一発勝負に合わせるかが大変です。一打同点とか逆転という場面で自分の名前がコールされ、お客さんが“ワーッ”と沸いたら気持ちも高ぶりますが、そこで凡打でもしようものなら、その拍手がブーイングに変わります。

「そんなこと言ったって、俺は1回しかチャンスをもらってないんだからな。知るか!」と思えるときはまだいいですが、中日時代は「何であそこで打てなかったんだろう」と落ち込むことのほうがたくさんありました。チームが大量リードしたときも複雑です。ふつうは“よかった、よかった”ですけど、代打はその展開になっちゃったら出番はなくなるわけですからね。いろいろ考え過ぎたのかもしれないけど、なんかモヤモヤしてくるんです。

「大島は集中力が高いから、代打に向いているのでは」と言われたことあったけど、やっぱり1試合全打席に立って勝負したいという思いはずっとありました。練習だって、4打席あると思うから一生懸命やったんです。「言うほど練習してなかっただろ」という人もいるかもしれないけど、僕は選手をやめるまで、ずっと練習には手を抜かなかった。それはずっと1試合すべての打席に立ちたいという思いがあったからです。1回立つだけならそんな一生懸命、練習しません。

芙沙子さんの涙


 少し思い出してきたんで、僕の代打時の調整法を紹介しましょう。

 まず味方のチームが守っているときは、ひたすらベンチで声援と、ときどきヤジです。やはり試合の雰囲気に入っておくのは重要ですからね。だから、準備は攻撃のときだけですが、まずはピッチャーの投球練習を見ます。「次、カーブ」とか言って投げるでしょ。癖が見つけやすい。これが終わったらベンチ裏に行って、バットを振ったり、体操をしたりして体を温めます。その後、軽くイメージトレーニングをしてベンチへ。今度は投手の右バッターへの攻めを中心に見ます。

 このころはもうベテランですから、だいたい出番は分かりました。ただ、そう思って気持ちを高めて高めて「よし、俺の出番だ!」となって出番がなかったときは、コントじゃないけど、マジでガクンとヒザが崩れてましたね。あのベンチ裏の苦労というのは、代打をやった人じゃないと分からないでしょう。

 いずれにせよ、この年は大した成績を出せず、チームの勢いにも乗れず、なんとなく終わってしまったシーズンでした。秋になると、スポーツ新聞には僕のトレード話も出ていましたが、まったく気にしてませんでした。それより「よし、次こそはやるぞ!」ですね。「仙さんのためにも、ナオミさんのためにも、ここで終わってたまるか!」です。

 ところがオフになって、星野さんから電話があって、「おい、お前を日本ハムにトレードするぞ」って。僕は「ええ! ちょっと待ってくださいよ! ウチは結婚1年目だし……」と言ったんですが、「俺は明日からアメリカに行くから、戻るまでに決めとけ」って冷たく一言。そう言われてもねえ……。

 ドラゴンズに愛着があったし、骨を埋めるつもりでした。引退も頭をよぎりましたが、選手は必要とされてこそ花だし、欲しいと言ってもらって移籍したほうが大切にされるだろうと思って、話を受けようと思ったんです。

 ただ、あとで聞きました。

 星野さんが電話を掛けたとき、後ろで、お亡くなりになった奥様の芙沙子さんが泣いていたらしい。僕は独身が長かったんで、何度も星野さんのご自宅にお邪魔し、芙沙子さんの手料理をいただいたんですよ。

 悩まれた末の苦渋の決断だったんですね。それをさせてしまった自分のふがいなさが情けないです。

 星野監督は、こうも言っていたらしいですね。

「トレードをするならチームが好成績のときにすべきだ。好成績のときは他チームの評価が高くなり、低迷時には買いたたかれるから」

 チームを強くすることに徹し、厳しい人でしたけど、僕だけじゃなく、実は選手のことを大事にしてくれた監督でした。

 本当に、本当に、僕の人生の中で大きな、大きな存在です。もちろん、これからもずっとです。

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