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50年以上も前のブラジル遠征は、私を大きく成長させてくれた旅だった【張本勲の喝!!】

 

サンパウロの街を歩く筆者[右]と水原茂監督


打席での解放感


 あれは1966年のシーズンオフのことだったと思うが、東映がブラジルに遠征に出掛けたことがある。およそ1カ月の長期遠征だった。当時にしては珍しいというか、日本のプロ野球界にとってもそんなに長く海外に遠征に出掛けるのは初めてのことだったのではないか。にもかかわらず、当時の写真や記録がほとんど残っていないのはマスコミの記者が誰も同行しなかったからだ。

 ブラジルと言えば、ちょうど日本の真裏になる。プロペラ機で36時間もかかった。せっかくのシーズンオフ、しかもそんな長旅となれば、今の選手であれば辞退する選手が続出するかもしれないが、私は喜んで参加した。当時26歳とまだ若かったこともあるが、海外に行けるという喜びのほうが大きかった。そういう時代だったのだ。それは私だけでなく、ほかの選手たちも同じだったに違いない。ペナントレースの緊張感はなく、成績を気にしないでリラックスして野球ができるのだから、それもうれしかった。

 そんな軽い気持ちで日本を旅立ったわけだが、実はこのブラジル遠征が私の野球人生において非常に大きな意味を持つことになった。もし行っていなければ、その後の私はなかったと言ってもいい。それは翌67年からの私の成績を見てもらえれば、よく分かるだろう。

 このブラジル遠征は、わが東映とパナマのオールスターチーム、そしてメジャー・リーグの選抜チームによる帯同転戦だった。ブラジルの各地を周りながら、試合をしていくのだ。メジャー・リーグの選抜チームにはワールド・シリーズで史上初の完全試合を達成したドン・ラーセンや、のちに太平洋に入団してすぐに帰国したフランク・ハワードがいたことを覚えている。

 この遠征で私はよく打った。打ちまくったと言っていい。ブラジルは日本とは逆の季節で年末は暖かいこともあったが、何よりも数字や優勝のことをまったく気にせずに野球をやることが、これほど楽なことだとは思ってもいなかった。私はのびのびと打席に入り、楽しみながら試合に出ることができた。

 逆に言えば、日本では常にプレッシャーがかかっているということだ。1打席1打席、常に数字がついて回る。1安打より2安打、2安打より3安打と少しでも上を目指し、欲も出る。シーズン終盤ともなればライバルの動向も気になる。いろんなことを考え、計算しているうちにバッティングが微妙に狂ってくる。

 しかし、このブラジルではそんなことを考える必要はない。野球とは、バッティングとは、こんなに楽しいものなのかと思った。日本から遠いブラジルの地で転戦を続けながら私はヒットを量産し、行く先々で日系人から大歓迎を受け、多くの拍手をいただいた。

 プロに入って8年、打席でこれほどの解放感を感じたことはなく、それが私の本来のバッティングを思い出させてくれたのだ。新しい発見だった。この遠征に参加していなければ決して分からなかったことだろう。だが、ブラジルでの収穫はそれだけではなかった。それ以上のことがあったのだ。

日系人たちの覚悟


 ブラジル遠征で大変だったのは移動だった。バスに乗って次の遠征地まで5〜7時間はかかった。試合が終わればまた移動。道路も決して良くないから、バスに揺られ続けていると試合の疲れもあり、体もクタクタになったものだ。

 だが、不思議なもので心はクタクタにならなかった。リオデジャネイロ、サンパウロという都市から遠く離れると、バスで行けども行けども砂漠が続いたり、ジャングルのような密林があったりする。私には見るものすべてが新鮮だった。ロンドリーナやアルサトゥーバというブラジルの街を私が今でもはっきりと口にできるのは、そのときの風景を鮮明に覚えているからだ。

 そしてこんなところに人が住んでいるのかと思えるようなところにポツリ、ポツリと家のようなものがあり、そこに多くの日系人の方々が暮らしていた。そしてそれが私たちの宿泊先となった。都市ならともかく地方の遠征先にホテルなどない。選手たちはそれぞれ散らばり、そのポツリ、ポツリとある日系人の方の家に泊めていただくのだった。

 すべてが質素だった。必要最低限の暮らし。この日系人の方たちの生活を目の当たりにし、私は何とも言えない気持ちになった。彼らがどんな想いで日本を離れ、この遠いブラジルの地までやって来たのか。ここでどれほど働き、どれほど苦労をしながら毎日を生き抜いているのか。厳しい生活であることは容易に想像できた。おじいさん、おばあさんたちのシワに刻まれた顔を見ていると、そこに苦労の跡が見てとれて、よくぞここまで……と私は涙をこらえるのに必死だった。胸が震えた。

 日本では決して味わうことのできない体験。食事をご馳走していただいたが、私にとって何よりのご馳走は彼らの話だった。苦労して命を張って生きてきた。その甲斐あって今は家族で何とか暮らしていけるようになった……。胸を打たれる話ばかりだった。彼らに比べれば私は何と恵まれていることか。私の悩み、苦しみなど、ここで毎日を生き抜いている彼らと比べるほどもない。私にはきれいな家があり、毎日食べるものがあり、好きな野球を仕事にできている。それ以上に何を望むというのだろう。数字やバッティングなど些細なことに、あれこれと思いをめぐらせている自分がとてもちっぽけな存在に思えた。

 ここまで読んできて分かると思うが、私はこのブラジル遠征で技術的なことは何もつかんでいない。新しい技術を取り入れたわけではなく、課題が克服できたわけでもない。それでも翌67 から4年連続首位打者となり、日本プロ野球記録となる通算3085安打まで打てたのは、このブラジル遠征の成果だろう。意識が大きく変わり、打者として、人間として、私を一回りも二回りも成長させてくれた旅だった。

 ボールを打ったり投げたりするだけが練習ではない。私のブラジル遠征のように上達への道はたくさんある。人間は何かのきっかけで大きく変わることができるのだ。

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