週刊ベースボールONLINE

【追悼企画連載再録】2000安打みちのく一人旅/大島康徳の負くっか魂!!

 

2000安打のブレザーをナオミさんに着させる大島さん



亡くなった大島さんを偲び、連載のいくつかを抜粋して紹介しています。今回は1990年、2000安打達成時の夫婦愛のお話です。



 日本ハムの2年目(1989年)くらいから、通算2000安打について聞かれることが増えました。ただ、報道陣に聞かれても、僕はいつも「無理、無理」って言ってたんですよ。年齢も年齢だし(89年で39歳)、難しいだろうって本当に思ってました。けど、ナオミさんは、ずっと「私は打つと思うよ」って言ってました。達成したときは予言が当たったように喜んでいましたが、あまり野球に興味なかったはずなんで、根拠はなかったと思うんですけどね。

 それでもあと100本を切ったあたりから、さすがに頭にチラつくようになりました。でも最後の最後は苦しみましたねえ。なかなかカウントダウンが進まず、ようやくあと2本となったときに、90年8月18、19日と対近鉄の東北遠征があった。

 そのときナオミさんが見に行きたいと言ってきたんです。それまでは地方についてくるなんてなかったんですけどね。1試合目、盛岡での近鉄戦の前夜、ナオミさんと2人で、地元の知り合いの寿司屋に行ったら、たまたま翌日先発予定の野茂英雄くんがいた。ルーキーで“トルネード旋風”を起こしていたシーズンです。僕が「おお、野茂くんか。あしたは先輩を立ててね!」と言ったら、爽やかな笑顔で「分かりました!」って言ってくれたんですが……何が立てるだ! 全打席初球からフォークボールを投げ込んできて、2打席凡退2四球です。

 その夜、ナオミさんと大ゲンカになりました。「お前がいると心配になって打てないんだ。帰れ!」。彼女も「ひとのせいにしないで!」と言い返し、翌朝、ほんとに帰っちゃった。ここからが、ほんとの「みちのく一人旅」ですね。若い方は、この歌、知らないかな。

 翌日の福島の試合もヒットは出ず、10打席連続無安打。続く21日のオリックス戦(西宮)も1打席目はライトフライで11打席連続ノーヒットとなって、その後、2打席目にやっと1999安打。そして4打席目、佐藤義則からのセンター前で到達です。39歳10か月の2000安打達成は、当時の最年長記録でした(試合数2290試合も当時は史上最多)。俺らしいと思いました。ビジターで、家族も見てない、お客さんも少ないし、地味な感じの達成でしたからね。

 2000安打については、ちょっと夫婦の愛の裏話があるんで、少しのろけさせてください。ナオミさんは結婚するときに、母親に言われてたくさん着物を用意したらしい。お母さんは「プロ野球選手の奥さんになったら、正装しなきゃならない舞台がたくさんあるだろうから」って言ったらしいですね。

 ナオミさんもそれを着るのを楽しみにしていたらしいんですが、僕は最初、「お前、そんなに持ってきても、優勝しない限り着る機会ないぞ」って言ったらしい。でも、それを聞いたナオミさんが落ち込んでいたのを見て、「待っとけ! いつかこの着物を全部着られるようにしてやるから!」ときっぱり! まったく覚えてないけど、男らしいでしょ!

 結局、2000安打達成と監督就任のパーティーで持ってきた着物は全部着たらしいです。すいません、また“らしい”ばっかりの話ですが、とぼけているわけじゃなく、けっこう忘れちゃうんですよね。

 ただ、どうですか、みなさん! ええ話やないですか!

 名球会ではもう一つ夫婦の思い出があって、名球会のパーティーで夫婦でハワイに行ったとき、大杉勝男さん(東映、ヤクルトで活躍した豪快なスラッガー。故人)に、「こんなかわいい嫁さんもらったんだ。ちゃんと手をつないでいないと、どこかにつれていかれるぞ」って言われました。それからハワイではいつもナオミさんと手をつなぐようになったんです。ハワイだけじゃないですよ。家の周りで散歩するときもつないでいます。ねえ、ナオミさん。

 あれ、「ウソ言うな!」って言われちゃいました。

PROFILE
おおしま・やすのり●1950年10月16日生まれ。大分県出身。中津工高からドラフト3位で69年中日入団。83年には本塁打王にも。88年に日本ハムへ移籍、90年には2000本安打に到達した。94年限りで現役引退。2000年から02年まで日本ハム監督も務めた。2021年6月30日死去。

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング