クイズです。前回の写真とどこが違っているでしょう?
器用貧乏になっているかも
前回に続き、
槙原寛己さんを招いての第2弾。今回のテーマは「高校野球」だ。令和の高校野球事情からボールを縫う話まで、いつものように自在に話題が広がっていった。
構成=井口英規 前回に続き昼下がり、都内の和食屋。食事も終え、デザートタイムに入る。─皆さん、時間はまだ大丈夫ですか。もう2時近いですけど(午後1時開始)。 定岡 まったく問題ないですよ。ねえ(と、食事を片付けに来た、お店の人に)。
お姉さん どうぞ、ごゆっくり。ランチタイムは3時まで大丈夫です。(ここでプリンがいいとか、アイスがいいとか、しばらくやり取りあり)
槙原 なるほど、こうやって1回で何本かまとめ録りをしてたわけですね。
─最初、別の日にやった“ふり”をしたこともあるんですが、『昭和ドロップ!』は自然体がいいかなと思いまして。 定岡 隠さないのが潔いだろ(笑)。2、3回に分けるとなると、写真も毎回必要だから、ポーズが難しいんだ。違うほうがいいと思って微妙に変えている。服は同じだけどね(笑)。
─いつも気を使っていただき、ありがとうございます(笑)。では、今回のお題に入ります。甲子園に出ていない川口(川口和久)さんを外してまで選んだのが(笑)、『高校野球』です。 定岡 ゴメン、グッチ!(笑)
─まずは初参戦のマキさん、最近の高校野球を見て思うことは。 槙原 かわいそうだなと思いますね。部活動が制限され、新型コロナで辞退があったり、お客さんも入れなかったりしているでしょ。去年のほうがもっとかわいそうだったけど、今年もやっぱり大変ですね。
定岡 今、野球だけじゃないけど、コロナで日常をなくして大変じゃないですか。しかもなかなか終わりが見えない。僕らおっさんの2、3年って、ふっと忘れられるけど、中学、高校の2年、3年ってすごく大きいですよね。
─18歳なら2年は9分の1、3年なら人生の6分の1がコロナですからね。 定岡 高校生の2、3年って、人生の半分以上が削られているという感覚だと思うんですよ。
槙原 でもサダさん、僕らの年齢でも2、3年は大きいですよ! ほんともう、返してほしいですよね。
定岡 それを言うなよ、マキ。俺たちはいいんだ。我慢しよう(笑)。
─マキさんは甲子園で147キロを出していますが、今、トップレベルの球児は普通に150キロ前後を出します。レベルが上がっているんでしょうか。 槙原 一番思うのは、太ももですね。半端ないでしょ、太さが。今はウエート・トレもガンガンやるし、食べ物もよくなって、普通にプロテインも飲んでいる。昔はメシを食って体をでかくしろって言われたけど、そんな食えないですしね。トレーニングもランニング系が多く、器具を使ったウエートはあまりしてなかったから、みな細身でしたよね。
定岡 水も飲めなかったしね。
槙原 そうそう、ばてるからと言われて。僕らはトイレの手洗い場でこっそり飲んでました(笑)。あと僕らのころはだぶだぶのユニフォームだったから、余計細く見えたのかもしれませんね。今はピチッとしている。
定岡 昔の高卒は、体ができてない状態でプロに入って2、3年は体づくりだった。俺は5年かかったけど(苦笑)。
槙原 ネットやYouTubeでトレーニングや体づくりに関する情報が入ってくるのも大きいでしょうね。
定岡 ここでかましておこうか! ただ根性だけは俺らのほうがあるけどね!(笑)。でも、これって昔と同じだよね。「俺らは戦争を経験してるから根性があるんだ」ってよく言われたから(笑)。
槙原 球種も僕らのころは真っすぐとカーブくらいしかなかったけど、今はカットボール、スプリットと、いろんな球種を投げる投手がたくさんいますよね。
篠塚 チェンジアップとかスライダーもすごいよね。びっくりすることがある。
定岡 でも、逆に器用貧乏になっちゃうんじゃないかな。まずは真っすぐを磨いて、それからでいいと思うんだけど。
槙原 僕も、かえって邪魔していると思うんです。プロに行ってからの伸びしろがなくなっちゃうというのかな。全員が全員とは言わないですけど、入ってから伸び悩む選手もいますしね。
定岡 体もそうだよね。筋肉ムキムキの選手もいるけど、あそこまで鍛えるのは20代でいいんじゃないかと思う。
篠塚 マキが入ったときみたいに、1年1年体が大きくなって球が速くなり、技術も徐々に段階を踏んで成長していくという選手が減ってきた気がします。投手も野手もだけど、早めにこじんまりまとまってしまうというのかな。
あの鬼コーチの正体は……。
高校時代の定岡氏
槙原 サダさんは甲子園出場2回ですよね(鹿児島実高)。
定岡 そう、2年の夏が初めてだった。代打だけだけどね。
槙原 お兄さん(
定岡智秋。元南海)は甲子園に行ってないんですか。
定岡 行ってない。3年のときは決勝まで行って鹿児島玉龍高に負けた。
─サダさんの3年夏は原辰徳さん(現巨人監督)のいた東海大相模高との激闘がありました。 定岡 あの試合は勝ったけど、準決勝でサヨナラ負けでした。僕はケガしちゃって途中で外れましたけど。
─その大会で優勝したのが、2年生のシノさんですよね。銚子商高は強豪でしたし、甲子園に絶対に行くと思って入ったわけですか。 篠塚 絶対に行くって思ってたのは中学のころからだね。その前からプロは意識していて、まずは甲子園に出ないとプロのスカウトに認めてもらえないでしょ。認めてもらうためにも行かなきゃいけないっていう感じかな。
'槙原'' シノさんは、中学のころから有名な選手だったんですか。
篠塚 うん、一応ね(サラリと)。
槙原 土屋(
土屋正勝。のち
中日ほか)さんがいて優勝したときですよね。シノさんも出ていたんですか。
篠塚 うん。
槙原 あの年の土屋さんは、すごく覚えてるんですよ。シノさんのイメージはあまりないんですけど。
─2年生ながら四番サードでした。 槙原 2年生で? すごいな、やっぱり。
定岡 銚子商って猛練習なの?
篠塚 厳しいですね。ナイター設備があったから練習も長いんですよ。
定岡 ナイター設備があるなんて、やっぱり関東だな。九州は、なんもなか(笑)。
槙原 桜島の火山灰とか練習に影響はあるんですか。
定岡 あるよ! 火山灰が雪みたいに降って走ってられないときもあったからね。でもさ、当時、ウチの練習に理論とかはなかった。ほんと根性だけ。軍隊の練習みたいで、試合になると、「お前ら、死ぬ気でやれ!」みたいな(笑)。それでよく育ったなと思うよ。銚子商は、監督の鉄拳はなかったの。
篠塚 監督はないですが、先輩はね。上下は厳しかったですよ。
槙原 当時はどこでもそうでしたね。
篠塚 そういえば、中学校のとき、まったく知らない人が突然、教えにきて、そのままコーチになった。すごく怖い人で、昔、ジャイアンツにいたって言うんですよ。練習も厳しくてね。打撃練習では投げてくれたんだけど、審判を学生がやっていて、ストライクをボールって言ったりすると、機嫌が悪くなって「もう止め!みんな守れ」って特守(笑)。そこでエラーしたらホームでケツバットよ。それで同級生のいい選手がどんどん野球部を辞めてっちゃった。学校の横が家で、今も覚えてるけど、ナンバーが×××のブルー
バードで来るから、車があるかどうか交代で偵察に行く。「よし、きょうは車があるから来ないぞ」とかね。でも、時々、カブ(バイク)で来たりするんだよね(笑)。
定岡 で、そのオジさんの正体は……。
篠塚 プロに入ってから名前を聞いたらそんな人いないって(笑)。
定岡 やっぱり、単なる野球好きのおっさんだったんだな(笑)。でもさ、監督の車のエンジン音って分かるよね。ウチのグラウンドは山の中腹にあったけど、監督の車の音が聞こえると、空気がピリッとしたからね。
槙原 ウチもそうでした。でも、たまに違う車で来たりするから気を付けないと。
定岡 それあったね。油断してるから一瞬、パニックになるんだ(笑)。
槙原 それは高校球児の“あるある”ですよね(笑)。
人生を豊かにする
高校時代の篠塚氏
篠塚 マキの甲子園出場はセンバツだけだっけ。
槙原 はい。夏は工藤(
工藤公康。現
ソフトバンク監督)がいた愛工大名電高が出てます。
─マキさんの大府高も練習は厳しかったんですか。 槙原 僕らもナイター設備があったから練習は長かったですよ。
定岡 愛知県もあったのか(笑)。
槙原 定時制があったんで、グラウンドにライトがあったんですよ。
定岡 朝練はあった?
槙原 朝練は基本ないです。でも、朝練ってきついですよね。体もそうだけど、ユニフォームが乾かないでしょ。
定岡 ウチはボールが少ないから、1年生が練習用の古くてほどけたボールの縫い目を縫ってたんだけど、マキのところはどうだった?
槙原 僕らも授業中に縫ってましたよ。
定岡 1人2個担当で、家でやれって言われるんだけど、帰ったらもう疲れてできないから、俺も授業中にやっていた。
─甲子園での華やかな記憶より、そういう苦労話のほうを覚えていたりするものなんですか。 定岡 両方ですよ。もちろん、甲子園は僕の中の大事な思い出です。でも、それだけじゃないというのか、その過程もあるわけじゃないですか。若いときは旅をしろとか、苦労しろとか言うけど、今になるとそういうことがたくさん思い出される。
槙原 高校時代は、若くて体も耐えられるようにできてましたよね。それに、そのときに楽をしてると、そのあとの人生で歯をくいしばるときに食いしばれない。野球やっていたら大体の不条理は大丈夫ですから(笑)。
定岡 うまくいかないことのほうが多いからね。あのときの苦しさや厳しさを経験していると、みんなプラス思考に考えられるよな。苦しかったけど、人生を豊かにしてくれるものでしたね。
槙原 ただ、この3人に共通しているのは、みんな甲子園に行けていることなんですよ。甲子園に行くと、全部そこで精算できるんです。苦労や努力が実って、すべていい思い出になるというか。
定岡 でもさ、行けなかった人も人生の中で力にしてるし、宝物にしてるよ。高校時代の話をすると、みんないきいきするもん。
槙原 今、球児の親御さんたちに話す機会があるんです。「甲子園に行くとかプロなんて稀なこと。それより多感な時期にほかの道に逸れないだけでもいいことだと思うので、お父さん、お母さん、いろいろ大変なことも多いけど、我慢してやったらすごくいい教育だと思います」と言っています。
定岡 どうです? マキもいいこと言うでしょ(笑)。
槙原 オトしてばかりじゃなく(笑)。
定岡 あと、同じことをやった人しか分からない共有できるものがあるんですよ。同じ元高校球児だと、こうやって別の学校、別の年代でも分かり合えるというか。シノなんて、僕が18歳で出会って、こっちはもう65歳になるのに、まだ隣にいて、野球の話で盛り上がれる。それも野球の力だと思うね。あ、そうそう、今シノはほとんどコメントしてませんが、電話中です(笑)。
槙原 そうだ、3年夏が終わったらどうしました? 僕らはすぐどこかに遊びに行こうかとなったけど、何していいか分からない。仕方ないから、ひとまずボウリング場に行きました。あとね、それまでは学生服かジャージで済んだから、遊びに行く服がないじゃないですか。丸刈りの頭に合う服がなくて困りました(笑)。
高校時代の槙原氏
PROFILE サダさん(
定岡正二/さだおか・しょうじ)●1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実高時代、夏の甲子園に出場し、甘いマスクで人気爆発。75年ドラフト1位で巨人入団。しばらく二軍生活が続いたが、80年に先発定着。
江川卓、
西本聖と先発三本柱と言われた。85年オフ、近鉄とのトレードを拒否し、現役引退。
シノ、シノさん(
篠塚和典/しのづか・かずのり)●1957年7月16日生まれ。千葉県出身。銚子商高2 年時の74年春夏連続甲子園出場、夏は全国制覇。ドラフト1位で76年に巨人へ入団した。80年から一軍に定着し、巧みなバットコントロールから広角に打ち分けてヒットを量産。84年と87年には首位打者に輝いている。94年限りで現役引退。
マキさん、マキ(槙原寛己/まきはら・ひろみ)●1963年8月11日生まれ。愛知県出身。大府高では3年春のセンバツに出場。ドラフト1 位で82年巨人入団。150キロ超の速球を武器に、2年目の83年に新人王に輝いた。86年には高速スライダーをマスターし、翌87年から3 年連続2ケタ勝利、
斎藤雅樹、
桑田真澄との先発三本柱で一時代を築く。94年には完全試合を達成した。2001年限りで現役引退。