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“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!

張本勲コラム「若き日の東映で過ごした思い出の駒沢球場、下町にあった東京球場は打者有利だった。一番お世話になったのは後楽園球場だ」

 

1954年から61年まで東映の本拠地だった駒沢球場


本拠地球場の思い出


 今週号は球場の特集ということで私なりに思い出を語ってみたい。以前にも述べたテーマだとは思うが、いろいろと思い出したことを付け加えていこう。

 その前に、まずは私がお世話になった本拠地球場を紹介しておきたい。私がプロの世界に入ったのは1959年(昭和34年)のことで東映だ。本拠地は駒沢球場で東京都の世田谷区にあった。若い読者なら「都会のいい場所にあったんですね」と思うかもしれないが、そうではない。当時はまだ球場の周辺は畑ばかり。民家が点在していた程度で、東京と言っても限りなく田舎に近かった。夏になると蚊が飛んできて、守っているときはよく刺されたものだ。ベンチには蚊取り線香を置いていた。

 ただ、64年に東京オリンピックを控えており、そのために東京都から土地の明け渡しを求められ、本拠地としての使用は61年まで。私にとってはわずか3年間という短い期間だが、それでもプロ野球人生をスタートさせた意味で思い入れのある球場であることに間違いはない。寮から徒歩で行けるのも便利と言えば便利ではあったが、負けた試合のあとに野次が飛び交う中で寮に戻るのはさすがにつらかった。62年から東映の本拠地は神宮球場、やがて後楽園球場となり、さぞ寂しかったと言われそうだが、私はむしろうれしさのほうが強かった。

 もちろん駒沢球場が取り壊されてしまうのは残念だったが、神宮、後楽園と言えば球場の聖地、檜舞台だ。後楽園は巨人の本拠地であり、神宮は青山のど真ん中。“東京の田舎”を飛び出て、そんな都会の球場でプレーできる喜びのほうが大きかったというわけだ。

 その後、日本ハムから巨人へと移籍することになったが、本拠地は勝手知ったる後楽園球場ということで、これは非常に助かったし、やりやすかった。ただし、観客の入りがまったく違うことには驚いたものだ。雰囲気がまるで違った。

 そして最後はロッテの川崎球場になる。3000安打を本塁打で達成した球場だから、ここも思い出深い球場ではあるが・・・

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