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裏方が見たジャイアンツ

香坂英典コラム 第90回 第二の故郷 宮崎【2】

 

筆者の宮崎に関する話題は尽きない。写真は1975年、春季キャンプのために宮崎の地に降り立った巨人ナイン


宮崎弁の予習はバッチリ!?


 以前にも書いたが、僕が中央大学の野球部合宿に仮入寮した時期に同部屋の新1年生が僕のほかに3人いた。最初に入寮した僕のあとにやって来たのは日高(日高孝)と児玉(児玉正利)だった。2人とも、なんとこれが宮崎商高(通称:宮商)出身だったのだ。日高さん、児玉さんという姓は宮崎県ではとても多い。そして、4人目に入って来た松田(松田昇)は日南高出身だった。

 新1年生の4人のうち3人が宮崎県出身ということになった。そして、僕にとって非常に困ったことが起こるようになる。われわれ新1年生4人で話していると、会話はいつも自然に「宮崎弁」に変わってしまうということだった。だが、この経験がのちのち僕の人生で役に立つことになる。

 僕は1980年巨人軍に入団するのだが、キャンプ地の宮崎に行くことになる数年前にもう宮崎弁を予習させてもらったようなものであり、その後、何度も宮崎を訪れるうちに僕の宮崎弁のマスタースキルは徐々に上がっていった(笑)。

 僕の宮崎弁の最初の先生であるこの3人は高校3年時、夏の宮崎県大会決勝で互いに対戦していた。宮崎県営球場(今は移転)で行われたこの試合は日南高が延長10回表、エース・松田の決勝ホームランで4対3と宮崎商高を下し、日南高が第57回全国高等学校野球選手権大会宮崎県代表の座をつかんでいる。

 この年は75年だったが、宮崎県日南市でキャンプを張っている広島東洋カープは球団創立26年目にしてリーグ初優勝を成し遂げた。日南高ナインは広島ナインと同じように「赤いヘルメット」をかぶり、甲子園でも3回戦までコマを進め、まさに「高校野球版 赤ヘル旋風」を巻き起こしたのだ。

 僕はいつも彼らの宮崎弁が分からず困っていたが、当時の部屋長の4年生・宮内(宮内敏彦)さんが僕ら1年生を食事に誘ってくれたときはさらに困った。それは宮内先輩自身も宮商出身だったからだ。僕は4人の宮崎弁の会話にはほとんど入ることができず、一人黙り込み、テーブルの皿にある焼き肉をつついていたのを思い出す。

 そして時は経ち・・・

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