赤カップのミズノグラブ。筆者が試合で使ったのはすべて“坪田製”だったという
油がにじむグラブの秘密?
ミズノのグラブ職人・名人と呼ばれた坪田信義さんが4月3日にご逝去された。今年に入ってから、不思議と坪田さんの話をすることが多くてね。その理由の一つに、2月に発売された月刊ベースボールマガジン別冊早春号での「蘇る堀内グラブ」という企画があった。三井ゴールデン・グラブ賞半世紀を一冊まるごと振り返るという中で、俺の現役時代のグラブをできる限り再現しようと試みた企画だった。
このコラムでもご紹介し、記憶に新しいところではあるけれども、哀悼の意を込めて、坪田さんとグラブについて、あらためて記しておきたい。
俺が生まれて初めて買ってもらったグラブは、小学校4年生のとき。野球がやりたいからと親にお願いした。当時のグラブは、親指と手のひらのボールを受けるところだけが革で、あとは布でできたものだった。初めて自分のグラブを手にはめたときのうれしさといったら。今でもはっきりと覚えているよ。中学に進学し、新しく買ってもらったグラブは、全部が革でできていた。今はポジション別にグラブの形が違うのが当たり前だけど、当時はどこを守るにしても同じ形だった。俺はショートとピッチャーを一つのグラブでやり通した。
高校に上がると、さらに良いものに買い換えてもらった。グラブの革といっても、ピンからキリまである。当時は親が経営する絹糸工場が儲かっていたこともあり、質の良いグラブを買ってもらえた。そして、高校を卒業して第1回ドラフトを経て
巨人に入団すると、球団から年間に2個だったか、グラブが支給されるようになる。いくつかのメーカーから自分が気に入ったグラブを選び、これをいただきましたとサインをすると、球団が支払ってくれるシステムだった。
グラブは大事な相棒だからね。プロの野球選手となり、中3日の先発、その間にリリーフと試合で投げて、どんなに疲れて寮に帰ってきても、その日のうちに必ず自分でグラブを磨いた。最後に油を塗って陰干しする。当時の日本のグラブは、まだ技術がなくて、革をもたせるために表面に油を塗ってやらないとバリバリになって使い物にならなくなってしまう。しかし、同じころのアメリカのグラブは違った。使えば使うほど、グラブの芯の中から、油が湧いて出てくるというもの。それを知った俺は、アメリカのグラブがどうしても手に入れたくなった。
入団2年目の1967年のこと。ドジャースとの合同キャンプに椎間板ヘルニアを患ったため参加できなくなった俺は、
高橋一三さんにグラブを買ってきてほしいとお願いした。一三さん、俺が欲しかった希望どおりのグラブを買ってきてくれた。もうドンピシャだったね。その年は、そのグラブを使い続けた。
シーズンが終わったあと、ミズノさんから声をかけてもらい、栄えある第1号のスポンサー契約者となった。そのときに・・・
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