就任4年目の93年、西武にリベンジを果たして日本一に輝いた
長嶋の“後釜”という状況だったが……
監督就任記者会見のひな壇で、野村克也の表情はなぜかさえなかった。1989年10月19日、東京・港区のヤクルト球団事務所で当時としてはトップクラスの年俸8000万円(金額は推定)を提示され、現役引退から9年ぶりに球界復帰。「今回の仕事は、一筋縄ではいかない」とぼやき続けた言葉のように、9年連続Bクラスに甘んじていた弱小球団のテコ入れに不安を感じていたのか。それとも、野村特有の本音を秘めた煙幕なのか。いずれにしても、「はっきり言って自信がない」というセリフは、晴れがましい席には似つかわしくなかった。
就任直後の野村の口から飛び出したのは、ヤクルトというチームの体質についてだ。打撃陣では広沢克己、池山隆寛が、二大看板の主砲として急成長。投手では“ギャオス”内藤尚行ら明るいキャラクターの若手が多数在籍し、系列民放局を中心にバラエティー番組などに頻繁に出演。女性ファンを中心に、若い支持層を生んでいた。
野村は、こんなチームカラーに危惧を持っていた。「私はずっと人気のないパ・リーグでプレーしていたから、人気面の大切さは痛感している。そういう意味ではいい球団になった。だが、はっきり言って、チーム全体が天性のままやっている。このままでは勝てない」と切り捨てた。
89年は広沢が17、池山が34、ラリー・パリッシュが42(リーグ最多)とクリーンアップの3人だけで計93本塁打。ちなみに同年のセのチーム最少は、大洋の76本塁打だ。一方、三振数は、広沢が125、池山が141(リーグワースト)、パリッシュが129と極端に多い。豪快だが大味な内容に、野村は「頭を使って野球をしていない」と手厳しかった。
ヤクルトは野村に監督を要請する前に・・・