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野村克也 追悼号 野村克也と私

ソフトバンク・甲斐拓也 野村克也追悼インタビュー 43年の時を経て──受け継がれた背番号「19」

 

現役選手の中で、最後の最後、野村克也氏が最も気に掛けていた選手ではないだろうか。同じような境遇から球界を代表する捕手へと成長を遂げつつある背中に、自らの若き日の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

2018年のオフ、週刊ベースボールの企画で対談を行った野村氏[左]と甲斐


“神様”のような存在


 言葉一つひとつに感銘を受けた。野村克也氏の本を読んで、野球選手としてだけでなく、一人の人間として、ここまで歩んできた甲斐拓也。別れはあまりにも突然だったが、いつも自分を気に掛けてくれた大先輩に、感謝の言葉を紡いだ。

 野村さんのことは2月11日の朝、グラウンドに集合してウオーミングアップをしているときに、マネジャーから聞きました。何も言葉が出なかったですね、正直なところ。びっくりしたのと同時に、いろいろな思いが頭の中に……。本当に言葉が出てこなかったです。

 練習後に行った会見に向かう前、「心の準備ができてない」とこぼしたのは正直な気持ちです。第一報から時間は経っていましたが、それでも何て言えばいいのか分からなくて。僕はまだ何度かしか直接、野村さんとお会いしたことはなかったのですが、そんな僕に対して、いつも気に掛けてくださって、いろいろな言葉を掛けてくださいました。

 野村さんが出した本の中にも僕の名前が出てくることが多くなって、読むたびにうれしかった。ただ、まだまだ野村さんと何度かしか会っていない僕が、会見のあの場で、何を言えばいいのか、何を伝えればいいのか、ということもありましたし、あとは本当にショックだったので……。“ショックで言葉が出なかった”というのが、今、振り返ってみても素直なところですね。

 僕は1992年に生まれたので、野村さんの現役のときを知っているかと言われたら違います。ただ、昔からいろいろな野村さんの本を読ませていただいて、勉強させていただきました。同じキャッチャーというポジションをしている僕にとっては、言葉が合っているかは分かりませんが、“神様”のような存在でした。

 現役時代の姿を見ていない分、分からないことも多いのですが、本を通して見えてくる野村さんからは、学ぶことが多くて。野球に関してだけではなく、一社会人、一人の人間としての部分も本にはたくさん書かれていたので、そういったところでも、教科書ではないですが、僕に大きな影響を与えてくれました。

 野村さんからは本当にたくさんの言葉をいただいて、その言葉から多くのことを学ばせていただいて、一つひとつ、そのすべてが僕の『芯』となっています。印象に残っているものを問われても、選ぶのが難しいほど。先ほども言いましたが、野球以外の部分でもすごく勉強になる部分が多いです。「人間はなぜ生まれてくるのか」。そういったことも本には書いてあったりするのですが、それを受けて、野球選手としての“甲斐拓也”だけではなく、一人の人間としての“甲斐拓也”がつくられてきたと思っています。

 まず“人として”という題から入るんですよね、野村さんは。「人として生まれる」「人として生きる」「人を生かす」。そういったところから勉強になりますし、僕らは野球選手ですけれど、野球だけやっていればいいというわけではない。一社会人として、一人の人間としてといった部分が、まずは大事になると教えてくださいました。もちろん野球に関しても、『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』というように、キャッチャーとして、特に心に残る言葉というのも多いです。

自覚を持って、覚悟を持って



 今年から背番号「19」を背負う。南海時代の野村氏を思い起こさせるその姿を、見せることができなかったことに涙も流した甲斐だったが、さらなる成長を誓い、今はしっかりと前を向く。

 2018年のオフには週刊ベースボールの企画で、対談もさせていただきました(18年12月31日号に掲載)。そのときに野村さんから「捕手とは?」と聞かれ、当時の僕はすぐに答えることができなかったのですが、今ならはっきりと答えられます。野村さんからいただいた言葉、『功は人に譲れ』。この言葉こそが、まさに答えです。キャッチャーというのは表に出ない。ピッチャーを支えていかなければいけない。スポットライトを浴びるのはピッチャーであって、キャッチャーはあくまでも黒子であれ、と。

 18年の春季キャンプでお会いしたときに「功は人に譲れ」と言っていただいて、シーズンを過ごす中で、何度も言葉の意味を再認識させられました。本当に胸に刺さりましたね。ピッチャーを、チームを、陰で支えられるようなキャッチャーにならないといけない、と思います。

 また、対談のときには「野球に学び、野球を楽しむ」という言葉を贈っていただきました。その言葉が書かれた直筆の色紙は、家に大事に飾ってあります。それ以外にも、いただいた本なども一緒に飾らせてもらっていて、それを見ながら日々、過ごしています。

 野村さんが残されてきた記録は、本当にとんでもないものです。ホームラン数(657本)もそうですし、出場試合数(3017試合)もそうですし、いろいろな数字を見たときに、本当に次元が違い過ぎて。そういった意味でも、やはりすごいなと思わされます。

 目指すなんて、簡単に言えないですよ! とてもじゃないですが、そんな簡単に超えられる数字ではないです。こんなにすごい方なのに、野村さんはご自身を『月見草』に例えられました。それが僕の中では少し不思議だなと思っています。これだけのすごい数字を残してきたのに、ひっそりと咲く月見草だなんて。まあでも、だからキャッチャーなのかな、とも思いますけどね。

 今年から、野村さんが南海時代の1956〜77年まで背負っていた背番号「19」を着けてプレーします。ご存じの方も多いと思いますが、僕が「19」を意識するようになったのは、野村さんから直接「着けてもらいたい」と伝えられたから。たぶん、野村さんから直接言われていなかったら、正直、背番号を変更すること自体、あまり考えてなかったと思います。

 野村さんの言葉で「着けたい」と思うようになって、ようやく今年、球団から話をもらったときはうれしかったです。ただ、野村さんの思いも込もった「19」を、野村さんに見せたい、見てもらいたいというのがあったんですが……。野村さんが亡くなって、より自覚を持って、覚悟を持ってやっていかなきゃいけないなと思っています。

 最後に野村さんへ。キャッチャーとしても、人としても、本当にたくさんのことを教わりました。何より、育成契約でプロの世界に入って、支配下選手にはなったとは言え、力もない、ようやく一軍の試合に出させてもらうようになった、まだまだの僕に、初めて会ったときから、言葉を掛けてくださった。本当に感謝しかないです。

 それから何度かお会いしましたが、悪く言われたことは一度もありませんでした。どちらか言うと野村さんは厳しく評価する方だと思うのですが、いつも僕には温かい言葉を掛けてくださいましたよね。ともに母子家庭で、育った環境が似ていたというのもあるのかもしれません。いつも「母ちゃんを大事にしなさいよ」「親孝行しなさい」と。たくさんの言葉を、こんな僕に掛けてくださって、僕は喜びをもらいました。野村さんに出会えたことだけでもうれしいことなのに、それ以上に、これ以上ない言葉を掛けられて、野村さんからたくさん愛情をもらったなと僕は感じています。

 できればこの、野村さんと同じ「19」を背負ってプレーする姿を見せたかったなと、今は本当にそう思います。残念ですが、ただそれでも、野村さんの魂を僕が引き継いで、しっかりと頑張っていきたいと思います。

2020年週刊ベースボール3月31日号増刊『野村克也 追悼号』より

PROFILE
甲斐拓也/かい・たくや●1992年11月5日生まれ。大分県出身。170cm84kg。右投右打。楊志館高から2011年育成ドラフト6巡目でソフトバンク入団。13年オフに支配下登録、17年シーズンからは開幕一軍をつかむと、勉強に裏付けされた巧みなリード、「甲斐キャノン」と称される強肩を武器に出場機会を増やしていく。扇の要として3年連続日本一に貢献。20年から野村克也氏以来43年ぶりに捕手で背番号「19」を着ける。
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