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再録インタビュー ホークス75年史(2013年発行)

歴代指揮官INTERVIEW 野村克也「南海ホークスなくして野村克也は存在しない」

 

1938年創設の南海ホークスがダイエー、ソフトバンクと名前を変え、2013年75年の節目を迎えた。小社ではこの節目に「ホークス75年史」を制作。巻頭インタビューで登場いただいた(一部抜粋)。

このインタビューがきっかけで週べのコラムがスタート


言い渡された「解雇宣告」


──現役として、監督としてたくさんのユニフォームを着られていますが、その中で「南海ホークス」は、どういう位置づけになるんですか。

「南海ホークスなくして野村克也は存在しない……。私はね、高校3年生になってもプロのスカウトは誰も来なかった。でも何とかプロ野球に入りたいと思って一つの基準を作ることにしたんです。20代がレギュラーのキャッチャーをやっている球団は消して、30代がレギュラーやっているチームを探した。当時35、6歳で引退だからね。条件に当てはまったのが南海と広島。広島は戦後できたチームでまだ弱い。南海は常に優勝争いをしているし、南海のテストを受けてダメなら広島。広島もダメなら社会人野球という方針を立てたんです」

──1年目は一軍で9試合に出場されています。

「1年間べったり一軍でブルペンキャッチャー、壁の仕事をやってたから、ボロ負けして選手がいなくなってくると、『あいつに打たしたれ』となった。ほとんど三振(11打数無安打、うち5三振)」

──プロの壁は感じましたか。

「というより、もうやめようと思った。育ててやろうという雰囲気が100%なかったから。毎日ブルペンで球を受けているだけで終わる。練習メニューの中にも入れてもらえない。それであるとき、二軍のキャプテンに『われわれテスト生は見向きもしてもらえないんですけど』と聞いてみた。そしたら『やっと気が付いたか』と。『テスト生で一軍に上がったなんて選手一人もいないよ。あのテストは、ブルペンキャッチャーとバッティングピッチャーを採用するためなんだ。7人合格して、4人もキャッチャーが合格したときに、おかしいと思わなんだか』と言われた」

──2年目は一軍出場がありません。

「1年目が終わって、何でか一番最初に球団に呼ばれた。それで球団社長に『クビや』と。『わしらの目はな、素質があるかないかは見りゃすぐ分かるんだよ。お前は無理や。ほかの世界へ行け。いずれ球団に感謝する日が必ず来るよ』。僕は『嫌です。試合にも使わず、試しもせずにクビなんて納得できません』と言った。高校出て1年過ぎてるわけだから、まず就職なんかない。そう考えたときに、もう生きていけないと急に悲しくなっちゃった。野球以外何もできないし、ほかの世界に行く自信もない。シュンとしてたら社長がちょっと待っとれと言って出ていった。あのとき母親の顔が浮かんできてね。母親は野球をやることに対して大反対だったんですよ。いろいろなことを考えた。その後、球団社長が10分くらいしたら帰ってきて、『分かった。面倒見たる』って。粘ってなかったら、そのまま終わりだった」

ハワイ遠征でつかんだ一軍のチケット


──一軍に抜てきされるきっかけとなったハワイの遠征は、2年目のシーズン後ですか。

「そう。あのとき一軍がリーグ優勝のごほうびでハワイキャンプをすることになった。当時は一般的に見ても海外旅行なんてまずない。しかも、鶴岡(鶴岡一人、当時は山本)監督が二軍からキャッチャーを一人連れていくっていう談話を出した。そしたら松本勇さん(兼任コーチ)が俺を推薦してくれたんだ。ハワイでは先輩たちは毎晩遊び回り、宿舎に誰もいなかったね。俺はマネジャーの手伝いで道具の手入れとかさせられ、終わってから毎日バット振ってた。

 ついてたのは(ほかの捕手の)松井(松井淳)さんが肩痛で、小辻(小辻英雄)さんも遊びほうけてたら、試合前に大目玉を食らって『日本帰ったらクビじゃ!』と。それで鶴岡さんが『野村! お前行け!』とやけくそで使ってくれた。そこからコンコン打って全試合出してもらった。打つから代えられないんだよね。

 それで、あす日本に帰るという最後の日だけ、僕も戸川(戸川一郎)のハワイの親戚の家に遊びに行って、11時の門限を破ってしまった。そうしたら宅和(宅和本司)から電話がかかってきて『大変だ。おっさんがエライ怒ってるで』と。ホテル着いたら説教の真っ最中。僕らも殴られた。せっかくつかんだチャンスがパーだなと思った。帰りに羽田に着いて、そこでの鶴岡さんの一問一答が新聞に出たんだけど『ハワイキャンプは大失敗だった』と談話が出てる。『その中で一つだけ収穫があった。野村に使える目処がついた』と。これはもう本当に一生涯忘れないよ」

カーブ克服のため打者分析を


若手時代。とにかくハングリーだった


──次の年(57年)は、30本塁打で、いきなり本塁打王ですね。

「三振も多かったはずだよ(リーグ最多の87)。カーブノイローゼにかかってた。お客さんもよく知ってて・・・

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