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よみがえる1970年代のプロ野球

【70年代のプロ野球を語る】大洋・山下大輔「なかなか優勝のイメージは持てなくて、正直できるとは思っていませんでした」

 

1973年秋のドラフト1位で大洋に入団。2年目から背番号1を背負い、レギュラーに定着。“大ちゃん”の愛称で親しまれたホエールズの看板選手だった。チームの歴史を語る上で欠かせない名手の70年代回想録。
取材・構成=牧野正、写真=BBM
週刊ベースボール 別冊空風号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(1) セ・リーグ編
2022年11月28日発売より


ゴールデンルーキー・山下大輔の入団はチームにとって大きな光だった


プロ野球は水商売


 1973年(昭和48年)の秋に開催されたドラフト会議。その話題の中心にいたのは作新学院高3年生の怪物・江川卓だったが、江川は「100パーセント進学」を表明。当時は予備抽選で順番を決めてからの指名だった。前年に続いて一番となった大洋が真っ先に指名したのが、端正な顔立ちから“慶大のプリンス”と呼ばれた慶大4年の遊撃手・山下大輔だった。

 ドラフトはもうずいぶん遠い昔の話ですよね。同学年には藤波(藤波行雄、中日)、栗橋(栗橋茂、近鉄)、木下(木下富雄、広島)、佐野(佐野仙好、阪神)がいました。4歳下になるけど、その年のドラフトで掛布(掛布雅之、阪神)もプロに入ったんじゃなかったかな。

 私が慶大に進学したのは清水東高の2つ上の先輩だった松下勝実さんが慶大に進み、大活躍していたから。その先輩のあとに続こうと。だから大学で野球をやるなら慶應と決めていました。ほかの大学には行く気がなかったですから受験もしなかった。一般受験で慶應の学部を4つほど受けたのかな。落ちていたらどうしていたんだろう……引っ掛かって良かった(笑)。

 大学3年のときには日本鋼管への内定が決まっていました。野球部の先輩が何人も行っていたので決めたわけですが、4年になるとドラフト候補として名前が挙がるようになり、ひょっとして指名されるのかなと。プロ野球は見ていましたけど、自分のレベルアップのために見ていた感じで、プロになりたいとか、将来はプロでという気持ちはまったくありませんでした。それでも指名されれば・・・

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