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よみがえる1970年代のプロ野球 70年代の記憶

【70's フライヤーズ&ファイターズの記憶】身売りに次ぐ身売りの激動の10年 1年だけの日拓、フライヤーズの終焉、動き始めたファイターズの歴史

 

映画産業が斜陽となり、東映が球団を売却。日拓ホーム・フライヤーズが誕生し、後期は「七色のユニフォーム」で話題を集めたが、たった1年で今度は日本ハムに身売り。グラウンド外でごたごたが続いた激動の時を経て、フライヤーズが消え、ファイターズの歴史が始まった。
写真=BBM
週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より


1973年は日拓に。右は土橋監督、左は金田留広


東映の身売り


 まさに激動の時代だった。始まりは「東映」が1972年限りでついに球団を手放したことだ。

 当時は巨人以外の球団経営は赤字で当たり前の時代。そこに1969年に端を発した「黒い霧事件」以降、パ・リーグの各球団は深刻な観客動員の減少に苦しんできたが、親会社にとっては「宣伝材料」として赤字も容認される風潮があった。

 一方、映画産業は斜陽となりつつあり、どこも多額の負債を抱え、球団経営においても赤字を容認できなくなっていった。「大映」は69年にロッテの協力を仰ぎ、本拠地である東京スタジアムの経営も困難を極め、71年には完全に経営権がロッテの手に渡った。70年には東京スタジアムで念願のリーグ優勝を遂げ、永田雅一オーナーがグラウンドになだれ込んだファンに胴上げされて涙する、という名場面があったばかりにもかかわらず、だ。

 もちろん東映フライヤーズも例外ではなかった。もともと大の野球好きで、永田と同じく名物オーナーだった大川博がいてこその球団経営だったが・・・

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