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よみがえる1970年代のプロ野球 70年代の記憶

【70's タイガースの記憶】江夏と田淵が描いた美学 無骨な男と都会派男が織りなすコントラスト

 

阪神タイガースにはいつも不思議な“華”があった。ひょっとしたら“再び”その美しさが戻ってくるかもしれない……。そういう期待とは逆に、それは幻覚なのかもしれない……という思いが残る。だけど、いつも独特の勝負の幻覚さえ期待したくなる……。かつて江夏豊と田淵幸一が輝いていた1970年代のタイガースには満開の桜とカミソリが同居していた。江夏と田淵という魔訶不思議な、それでいて残忍なほどのスーパーマン……。いまだに、あの華やかさには、イイ歳をして、「ストレイシープな状態」でありますゾ。
構成=水本義政(フリージャーナリスト) 写真=BBM
週刊ベースボール 別冊空風号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(1) セ・リーグ編
2022年11月28日発売より


このバッテリーで宿敵・巨人を相手に、何度も挑み勝利をつかんできた


面白いから指名しろ


 まだ、スポーツ新聞社に入社したばかりの新米記者だった私は、年末の超多忙な作家、司馬遼太郎氏に、正月元旦付きのエッセイを書いてもらうように命じられた。

 無茶苦茶である。吉永小百合のファンで芸能記者にでももぐりこめたら……と夢を見ながら入社して命じられたのは「お前は阪神番になれ」という非情通告。それが『竜馬が如く』がNHKの大河ドラマになって超売れっ子の司馬氏に年末のドサクサに東大阪のご自宅まで行って元旦用の「戦国レースを斬る」なんていうエッセイを書いてもらってこい! というとんでもない注文である。ペーペーの若造が、そんな無茶苦茶な話はない……。

 だが、その原稿をなぜかサッと書いていただいて帰った。その経緯(いきさつ)については今回のテーマではないので割愛する。それ以降、司馬氏邸には図々しく、足しげく通わせていただいたのだった。

 2年後(1967年)には大阪学院高から江夏豊という左腕がドラフトで入団する。これは、注目されていたが、当時の藤本定義監督が『面白いから指名しておけ……』という程度で即戦力の目算はそれほどでもなかった。早速、尼崎にあった阪神電鉄の車庫に江夏とドラフト3位の平山英雄(釧路江南高)、同5位の奥田敏輝(桜塚高)の3人を正月用の写真撮影で連れ出して電鉄の出発進行! の写真を撮った。そのときに「好きな女性のタイプは?」と月並みな質問をしたら3人は即座に当時の清純派女優の名前を挙げた……と思った。江夏だけはニヤリとして、『ジョーン・アダムス』(当時のYTV系の大人の深夜番組の超人気のグラマーの名前を挙げサラリ。

 ここから異彩を放っていた。

 以後、ルーキーの江夏は自主トレ、安芸で1年目のキャンプから、ことごとく虎番たちの期待どおりの動きを見せてくれた。それは虎風荘の合宿入りから、練習初日のエース・村山実への元気のいいあいさつ。一挙手一投足……。当時、エースの村山は非常にナーバスに江夏の存在に反応したが、ことごとく、江夏の側から村山に接近し、動きを食い入るように見つめ、学ぼうという努力を費やしている。

 やがてその努力が村山をして、芦屋の自宅マンションにも呼び「ユタカが一人前になったら、エエ背広をつくったる……」となり、巨人戦の試合前の練習では打撃練習をしているON砲の王(王貞治)の背中をアゴで指し示し、「エエか、お前にはアイツを任せたゾ! ワシは長嶋(長嶋茂雄)さんや」とゾクリと言い放っている。

 つまり、当時のセ・リーグNO.1投手でもあった村山が天下のON砲の片方のキラー役を譲渡する覚悟をのぞかせたのである。

「ユタカ、おまえはノートをつけろ。その日のうちに学んだことはその日のうちに必ずノートを書け」と村山はウルさく言い続けた。その道筋も教育した。面倒くさいことをいいよるのぉ……このオッサンはと思いつつも、飛ぶ鳥を落とす勢いで当時のエース・村山にさからうことなく学ぶ姿勢を貫いた。そこに古タヌキと言われた・・・

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