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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

【レジェンドを訪ねる】八名信夫(東映)インタビュー<1> 食べるために水道の蛇口を盗んだ終戦直後「小学生の僕に野球を教えてくれた小田先生は恩師です」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今週からは八名信夫さんです。「悪役」の俳優として有名ですが、東映フライヤーズでプロ野球選手だった「野球人」でもあります。
文=落合修一

八名信夫


進駐軍の兵士のキャッチボールを見た


──岡山で生まれ育った八名さんの、少年時代の野球との出合いから教えてください。

八名 父親が国鉄の岡山鉄道局の職員だったので、岡山駅近くの官舎に住んでいたんですが、僕が9歳だった1945年6月29日の岡山大空襲で焼け出されました。戦火の中を必死で避難し、一時は家族ともはぐれたのですが助け出されてから再会し、岡山の平島という町に疎開することになりました。牛を飼っている農家で部屋を借りる生活です。終戦後、進駐軍のジープが2台ばかり小学校の校庭に入ってきて、シラミを駆除するDDTという白い粉の殺虫剤を子どもたちに掛けました。その後、兵士たちがボールとグラブを使ってキャッチボール。初めて見ました。「こんなに面白いことがあるんだ」と僕は知って、教室の座布団の綿を抜いて、裏に軍手を縫い付けて、ミットのようなものを作りました。ボールは、生のサツマイモを丸く切って、やはり軍手で包んで縫う。それが僕の野球との出合いです。

──そうやってボールを投げる、捕るというだけで楽しかったのですね。

八名 楽しかったですよ。ほかに遊ぶものがないんですから。

──戦時中の空襲におびえた時代からの解放感も格別だったのでしょうね。

八名 それまで野球というものを見たことがなくて、こんな楽しいもの、なんで日本になかったんだよと思っていました。

──キャッチボールから、チームとしての試合に発展したのですか。

八名 学校でみんなが座布団でミットを作るようになったけど、試合をやろうとはならなかった。それたボールを走って追いかけるだけでも楽しかったんです。やがて、僕は・・・

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