コーチスボックスからマウンドまで一直線
1976年6月17日。その日、後楽園球場では日本ハム対阪急の前期12回戦が行われていた。5回表が終わって、試合は日本ハムが阪急に6対0とリード。しかし、一塁コーチボックスに陣取る「親分」こと日本ハム監督・大沢啓二の表情は晴れなかった。それどころか、その鋭い眼光は怒りを帯びてマウンドの阪急投手・竹村一義に向けられていた。
それは4回裏のことだった。リリーフに上がった竹村が投じた球が四番のウイリアムスの後頭部に命中したのだ。今でいう危険球である(当時は退場規定なし)。日本ハムは選手層が薄く、主砲の離脱は一大事である。大沢は怒りをあらわにするウイリアムスをなだめながらも、独特のべらんめぇ口調で竹村に警告することを忘れなかった。
「次やったら、分かっているな!」
大沢は神奈川県出身であったが、短気で喧嘩っ早い江戸っ子のような気質の持ち主だった。若いころから武勇伝は数知れない。したがって、その警告は単なる脅しではなかった。そのことを、竹村は身をもって知ることになる・・・
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