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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1972年11月17日>崩壊寸前だったパ・リーグに救世主、現わる。人気者・カネやんがロッテ監督に

 

当日の記者会見の写真は弊社に残されていないが、「金田監督の自由なパフォーマンス」と「走らされるロッテの選手たち」の双方が見事に表現された写真


実績のない新人監督が異例の高額年俸


 1972年11月16日。仕事でアメリカに渡っていた金田正一は午後7時6分羽田空港着の飛行機で日本に帰国した。彼は休む間もなくロッテ本社に連絡し、午後10時半に銀座のホテルで球団幹部と会談、契約の細部を詰めた。そして翌17日、ロッテは金田の監督就任を発表した。監督年俸2400万円は巨人川上哲治に次ぐ金額で、新人監督としては異例の好条件であった。

 金田は言わずと知れた大投手である。国鉄と巨人で挙げた勝利数は日本記録の通算400。彼以上に実績を残した投手はほかに誰もいない。引退後もその豪快なキャラクターを生かして解説者やタレントとして活躍。同時に会社を経営する実業家としての顔も持つ39歳の金田は当代の人気者であった。しかし指導者としての実績はない。「新人監督なのに年俸が高過ぎる」と眉をひそめた関係者もいた(阪急で黄金時代を築いていた西本幸雄監督の年俸は1300万円だった)。

 しかし金田は「順調だった仕事をなげうってまで監督を引き受けようとしているんやで。ワシの現在の働きからすれば安いもんや」と批判を一蹴。また現役時代「天皇」と呼ばれたほどのワンマンだった金田に監督業が務まるのかという危惧にも「名選手必ずしも名監督ならず、というのはあくまでことわざや。野球界に金田旋風を巻き起こすつもりや」と意に介さなかった。

 確かにロッテが提示した条件は、能力未知数の監督に対するものとしては破格だったかもしれない。しかしそうせざるを得ないほど、当時のロッテを取り巻く状況はひっ迫していた。この年5位に沈んだロッテの観客動員数はわずか31万人。本拠地・東京球場には閑古鳥が鳴いていた。その東京球場も、所有者である国際興業社長の小佐野賢治から13億円という累積赤字を理由に賃貸契約を拒否され、買収を求められていた。提示された金額は・・・

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