週刊ベースボールONLINE

あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1944年12月2日>創成期の大投手が27歳にして戦火に散るも、今も生き続ける「沢村伝説」

 

1935年の大日本東京野球倶楽部[現巨人]の第1回米国遠征より。米国で実力を称賛されたが、米国との戦争によって9年後に没する


全身バネのようだった「男性美の極致」(大和球士)


 1944年12月2日。激戦地のフィリピンに向かう途上で沢村栄治は戦死した。27歳だった。彼がどのような最期を迎えたかは伝わっていない。遺品もない。死んだ場所すら正確には分からない。なぜならば、沢村を乗せた輸送船は洋上で米潜水艦の魚雷を受けて沈没し、生存者は誰もいなかったからである。

 プロ野球創成期における巨人の大エースであり、その年一番の先発投手に授与される賞にその名を残す沢村は、伝説の投手として今もなお異彩を放ち続けている。その最も有名なエピソードは、34年11月20日に草薙球場で行われた日米野球でのピッチングであろう。この試合に先発した沢村は、当時京都商業を中退したばかりの17歳に過ぎなかった。

 そんな「スクールボーイ」が、ベーブ・ルースを筆頭に5人がのちに野球殿堂入りを果たした大リーグ選抜の強力打線を相手に9奪三振の快投を見せたのである。試合はルー・ゲーリッグにソロホームランを打たれて0対1で完投負けを喫したものの、沢村のピッチングは日本の野球ファンを大いに沸かせた。日本プロ野球の歴史は、事実上この一戦から始まったと評されることも多い。

 大リーグ選抜監督のコニー・マックも認めた沢村の実力は、日本選手の中でも群を抜いていた。アメリカ遠征の際は、セントルイス・カージナルスからスカウトされたほどだった。沢村と同時代を過ごし、戦後も長くプロ野球に関わった多くの関係者が史上最高の投手として沢村の名前を挙げている。例を挙げよう。

「金田(金田正一)、杉下(杉下茂)、杉浦(杉浦忠)、稲尾(稲尾和久)らを推したい人も多かろうが、それは全盛期の沢村を知らないから言えることで・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

あの日、あのとき、あの場所で

あの日、あのとき、あの場所で

球界の記念日にタイムスリップ

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング