週刊ベースボールONLINE

あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<1979年2月16日>南海・門田がキャンプ中に右足アキレス腱を断裂。「大砲」への道が始まる

 

アキレス腱断裂の翌年である1980年のオールスター第1戦[西宮]でこの年から背番号44に変えた門田は広島福士敬章から代打2ランを放つ


「ブチ!」という不気味な音が響いた


 2023年1月に74歳で世を去った門田博光(南海ほか)は、史上屈指の「大砲」だった。本塁打王になること3回。通算567本塁打は王貞治野村克也に次ぐ歴代3位である。1988年には40歳にして44本塁打を記録し本塁打王と打点王(125打点)、MVPを獲得。「不惑の大砲」として一躍脚光を浴びた。

 しかし門田は最初から長距離打者だったわけではない。70年にドラフト2位で南海に入団して以来、78年までの9年間で放った本塁打は179本。年平均で20本弱に過ぎない。30本塁打以上は71年の1回(31本)のみという典型的な中距離打者だった。そんな門田が、なぜホームランバッターへと姿を変えたのか。そこには選手生命そのものを脅かす、ある挫折があった。

 巨人と東映で5度の日本一を成し遂げた名将・水原茂は、77年に刊行された『人物・日本プロ野球』(文藝春秋)で当時の現役ベストナイン(右翼手)に門田を選んでいる。評価は「肩と足もよい若手有望株」。後年の指名打者のイメージが強い門田だが、もともとは守備の名手だった。俊足であり、71年には15補殺を記録したその強肩は盗塁王の福本豊(阪急)も警戒した。攻守走の三拍子がそろった外野手。それが78年までの門田だった。

 しかし、そんな理想的とも言える選手像と永遠に決別しなければならない日が突如として訪れた。

 79年2月16日。南海は高知県大方で春季キャンプを行っていた。柔軟体操中の門田は、全身をひねるようにジャンプした。そのときだった・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

あの日、あのとき、あの場所で

あの日、あのとき、あの場所で

球界の記念日にタイムスリップ

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング