週刊ベースボールONLINE

よみがえる1990年代のプロ野球

【90年代回顧録】ブレーブス&ブルーウェーブOBに聞く・酒井勉「素直に喜べなかった95、96年のリーグ連覇。でも時間をくれた球団に感謝しています」

 

エースとして大きな期待を受けていたのは背中に着けた『18』が物語る。1年目の1989年に新人王に輝き、90年代は主戦投手へ。誰もがそう思っていた中で苦闘の日々が始まった。

入団時から背番号18を着け、93年には2ケタ10勝を挙げるも……[写真左は中嶋聡]


蓄積疲労の影響


 阪急から球団名が変わったオリックス元年の1989年に入団し、1年目は前半戦に先発として6勝、後半は抑えを任されて3勝9セーブの成績を残すことができました。与えられた登板機会で必死に腕を振り、積み重ねた成績。もちろん、2年目の90年もやる気に満ちあふれてシーズンへ。ただ、知らず知らずのうちに体は悲鳴を上げていたのかもしれません。90年も1シーズンで先発、抑えと2つの役割をこなし、31試合に登板しましたが、投げていく中で感じていたのは、ボールが走っていないこと。思うようなストレートが投げられなくなっていたんです。気持ちに反して、体は“勤続疲労”の影響を受けていたのでしょう。少なからず肩はダメージを受けていたのだと思います。

 これでは打たれる。でも、マウンドには上がりたい。となれば投球スタイルを変えていかないといけない。だから、適切な表現か分かりませんが“騙(だま)し騙し”投げていた気がします。ストレートで押せないなら変化球を交えて打者の芯を外していく。思うようなストレートが投げれないのであれば、投げられるストレートをいかに速く見せるか。そうやって、マウンドに上がり続けていました。

 90年代は現在のように投手の分業制ではない時代でしたからね。先発ならば、球数なんて関係なく9回完投は当たり前。抑えにしても、9回の1イニング限定ではなく、7回途中から登板して、2イニング以上を投じることだってありました。抑えをやっていた期間は正直、「このポジションだったら何年も体がもたないな」と思ったものです。試合で投げない日だって、ブルペンに入って肩をつくるわけですから。

 先発ローテーションに入って調整しながら登板したい。正直なところ、そんな思いがありましたが、与えられた場所で腕を振るのがプロです。それに、本来のストレートが投げられない中でも投手として、あらためて分かったこともあったんです。それが『スピードでなくコントロール』『ストレートに変化球を交えた投球術の大事さ』の2つ。「ああ、これが本当のピッチングなんだ」とあらためて気づかされたんですよね。

 本来のストレートが投げられないからこそ、投球の大事さを痛感させられたのですが、それが生きたのが92年。初めて2ケタ10勝を挙げることができたのですが、この年は肩の違和感も消え、本来のストレートが投げられるようになっていたんです。90、91年に、つかんだ“投球術”と球威が戻ったストレート。この2つが合わさったことが好結果につながったと思うんですよ。“騙し騙し”の投球も決してムダではなかった。むしろ、投手として成長できたんです。手応えを得て、93年はもっといい結果を残す。そう思って挑んだシーズンは、開幕ローテに入って登板をこなしていました。

サイドハンドから投じる球威ある直球が武器も、徐々にスピードが出なくなると投球スタイルの変更を模索した


 そんな中で7月に入り、ブルペンで次の登板に向けてピッチングをしていたときのこと。背中に激痛が走ったんです。しびれも出て、当時の土井正三監督に報告すると「病院で診てもらったほうがいい」と。診断を受けに行き、伝えられた結果は『黄色靭帯骨化症』でした。

感謝の複数年契約


 初めて聞く病名。すぐに理解することはできませんでした。聞けば背骨を補強する靭帯のひとつ『黄色靭帯』が骨になってしまい、それが原因でしびれが出るとのこと。手術を行い、93年はリハビリ生活となり、復帰を目指していくことになりました。時間はかかる。ドクターにも、そう言われていたので、不安は消えません。オフの契約更改の際に球団に相談すると「復帰まで待つ」と言っていただき、複数年契約を結んでいただいたのです。現在では聞き慣れた複数年契約ですが、当時に前例はなく、聞けばプロ野球で初めてのこと。当時は1億円プレーヤーでも契約を切られるなど、オフの動きも激しかった時代。3年間も在籍させていただく“身分保障”に頭が下がるばかりでした。

 球団の思いに応えるためにも復帰を目指し、94年にはファームで実戦登板できるまでに回復しました。でも、投げては別の部位を痛めての繰り返し。知らず知らずのうちに、背中の痛みをカバーするように投げていたのかもしれません。実戦復帰しては足、腰の下半身、脇腹などを痛め、一軍への道は近づかない。もどかしい日々を過ごしました。

 でも、ファームで過ごす日々は、視野を広げてくれたんです。1年目から一軍で投げていた私は、ファームで必死になる選手の姿を見てこなかった。一軍とは、これだけの選手が目指す場所だと痛感させられたのです。チームもちょうど世代交代の最中。金田(金田政彦)、戎(戎信行)ら若い子たちが、一軍で活躍するまでの過程を見届けることで、指導者に興味を持つきっかけとなったんです。

 とはいえ、私もまだ現役で一軍復帰を目指している途中。95年は一軍がリーグ優勝を果たし、球団は歓喜に沸いていましたが、素直に喜べるわけもなく……。来年は、あの輪の中へと強く思っていました。そして96年のキャンプで、ようやく本調子に戻り、復帰に手応えを得ました。が、世代交代が進む一軍に割って入る余地はなく……。年齢も33歳となり、オフに戦力外を言い渡されたのです。ようやく、復帰が見えてきた中での通告。まだ現役を続けたい。他球団のテストも受けに行きましたが、合格通知は届かず、ユニフォームを脱ぐことを決めました。

 奇しくもチームはその年、日本一に。寂しさもありましたが、球団は私に3年という時間を与えて復帰まで待ってくれました。その思いに応えられず、チームの戦力も充実していたこともあり、戦力外は覚悟していたことでもあったんですよね。

 引退を決めると球団が二軍マネジャーのポストを用意してくださったことも感謝、感謝です。ここからまた2年間、ファームでの生活が始まり、若い選手たちが一軍を目指す必死な姿、そんな選手を指導するコーチを間近で見て、勉強になることも多かったんです。現役晩年に興味を持ちつつあった指導者。のちにスカウトを経て、二軍投手コーチも務めさせていただきましたが、この経験を大きく生かすことができました。

 ファームには、いろんな選手がいます。一軍を目指す若い選手、結果を残せずファーム暮らしが続く中堅、ベテラン。私のように故障から復帰を目指す選手……。オリックスにとって90年代は、リーグ連覇と日本一という輝かしい成績を残すことができた一方、私自身は二軍で多くの経験を手にすることができました。だたからこそ、指導者として飛躍を期す選手たちと真摯(しんし)に向き合ってこられたのかな、と思うんです。

 2021年は、オリックスでメンタルコーチとしてファームの選手たちと接してきましたが、選手の気持ちを理解できるのは、そんな経験があったからこそ。21年に96年以来、25年ぶりのリーグ優勝を果たした一軍ですが、ファームにいた選手たちは心からは喜べていないはずです。何より、私がそうでしたから。そんな気持ちが大事。どんな形になるかは人それぞれですが、私も90年代の多くの経験、思いが今、いろんなことに生かされているんです。

PROFILE
酒井勉/さかい・つとむ●1963年6月27日生まれ。千葉県出身。東海大浦安高、東海大、日立製作所を経て89年ドラフト1位でオリックスに入団。1年目の前半は先発で6勝、後半は抑えを務めて3勝9セーブと大車輪の活躍で新人王に輝き、92年には2ケタ10勝をマーク。93年に難病・黄色靭帯骨化症を患い、94年から一軍登板なし。96年に現役引退。2021年まで二軍マネジャー、スカウト、二軍投手コーチなどを歴任。通算117試合登板、33勝31敗14セーブ、防御率3.78。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング