プロ12年目のいま、誰よりも野球を楽しんでいる。リーグトップの得点力を誇るヤクルト打線の五番に座り、チームには欠かせない存在となった。そして小さいころからあこがれていたオールスター出場を果たし、打者としてのキャリアを積んでいる。そんな雄平は高校NO・1左腕としてドラフト1位指名を受けた。入団当初、現在の姿を想像できた者はいただろうか。誰に対しても優しく、笑顔と努力を絶やさない男の、第2のプロ野球人生は、まだ始まったばかりだ。 文=佐藤春佳(サンケイスポーツ) 写真=中島奈津子、BBM 練習中から笑顔が絶えない。「こんなに試合に出続けるのは初めて。楽しいです」。打率、安打数、本塁打数、長打率……、セ・リーグ打撃部門のベスト10に軒並み名を連ねる30歳の『強打者』も、野手としてのキャリアはわずか5年。一軍出場試合数はここまで、投手時代に中継ぎとしてマウンドに立った「52試合」が最多だった。毎日試合に向かい、打席に立ち、守備に就く。今シーズン経験する何もかもが、雄平には新鮮に映る。
かつては最速150キロを誇る剛球左腕だった。東北高時代は、2歳年下の
ダルビッシュ有(レンジャーズ)より先にメジャー球団の注目を集めた。ドラフト1巡目で入団し、ルーキーイヤーの2003年4月22日の
巨人戦(東京ドーム)で初登板。6月11日の巨人戦(同)で中継ぎ登板して勝ち星がつき、ドラフト制後、球団高卒新人では7年ぶり6人目の初勝利を挙げた。この年は27試合、102回に登板し5勝。かつて
石井一久が着けた「背番号16」を背負った若きサウスポーの前途は洋々だった。
屈託のないその笑顔は、プロ2年目以降、次第に曇っていった。「壁」は制球難だった。もともと制球が良いタイプではなかったが、制球を気にすれば気にするほど袋小路に入った。投球フォームを何度も改造し、トレーニング方法や体作りも1から見直した。精神面の弱さを指摘されると、メンタルトレーニングも研究。しかし、飛躍への端緒はつかみかけたと思うと逃げていく。次第に投球感覚を完全に見失い、キャッチボールもままならなくなった。そして09年、ついに一軍登板はわずか1試合にとどまった。
「いろいろな練習に取り組んできました。本当に、死ぬ気でやったんです。でもダメで、きっかけを探しても探しても兆しがなかった。投手としてもう出し尽くして、これ以上はない」
苦しんだ日々を、雄平はそう振り返る。
転機は、09年秋のフェ
ニックス・リーグだった。当時の
猿渡寛茂二軍監督から野手での出場を勧められた。猿渡監督には“思惑”もあったが、本人への説明はあくまで「真ん中に投げてもそう簡単には打てないもの。打者の気持ちを分かるために」というものだった。
雄平は振り返る・・・
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