週刊ベースボールONLINE

甲子園ヒーロー列伝

海草中・嶋清一、伝説の怪腕(甲子園ヒーロー列伝/07)

 

5季連続出場となった39年夏に全国制覇




 100回の記念大会を迎える夏の甲子園。週べオンラインでも、本大会開幕まで、甲子園を沸かせた伝説のヒーローたちを紹介していこう。

 5寸六尺、メートルに換算すれば170センチ前後。
 
 当時としては長身からのダイナミックなフォームで快速球とドロップを投げ込む。チームメートたちはのち「スピードガンがあれば球速は150キロを超えていたはず」と口をそろえた。

 春2回、夏4回出場。1939年夏には全5試合を完封し、うち準決勝、決勝は2試合連続ノーヒットノーラン。まさに伝説の大投手である。

 海草中では1年から一塁手で五番を打ち、2年時、長谷川信義監督に抜擢され、投手に専念。しかし、我を張らぬ気の優しさもあってか、制球難で後半に崩れることが多く、期待を裏切ることも多かった。

 長谷川監督は、体が硬いという欠点があった嶋に徹底してシャドーピッチングをさせ、フォームを固め、結果的に肩・ヒジの可動域を広げることにもつながった。

 3年時の37年夏は、準決勝で中京商の野口二郎と投げ合って敗れ、翌38年春も準々決勝で中京商と当たり、今度はノーヒットノーランで涙をのんでいる。
 ただ、ともに敗れはしたが、「投手・嶋」の名を全国に鳴り響かせる大会だった。

 しかし、夏は1回戦の平安中戦で5対1から突如制球が乱れ、逆転負け。ふがいない投球に地元和歌山市民が怒り、「嶋が投げている限り海草は勝てない」とののしられたという。

 それでも5年生になり、1939年夏に出てきたときは、主将となった責任感もあるのか、見違えるようにたくましくなっていた。
 左腕からの剛速球と大きく落ちるインドロップが冴えわたり、初戦の嘉義中を15奪三振で完封(5対0)、好投手・神田武夫(のち南海)を擁する京都商を2安打完封、強打捕手・土井垣武(のち阪神ほか)がいた米子中を3対0と、ねじ伏せていく。

 続く準決勝の島田商も8対0とまったく寄せ付けなかった。
 試合巧者の島田商は、“打倒嶋”で戦略を練ったが、この日の嶋がよすぎた。4四球を与えたが毎回の17奪三振で、ノーヒットノーラン。
 翌日、8万人の大観衆が見守る下関商との決勝はさらに凄みを増し、バットを短く持って食い下がる下関商打線に、2四球の走者を許したのみ。
 それも二盗死と併殺に仕留めて無残塁で、またもノーヒットノーラン。5試合で154人の打者に対し、許したヒットは8本、うち内野安打が4本だったという。

 奪った三振は当時の大会記録の57個。海草の中堅手・古角俊郎は「ドロップはセンターから見ていると、一度止まって、戻ってくるように見えた」と語る。
 打っても21打数11安打。海草中は翌年夏も真田重男(のち松竹ほか)の快投で連覇。以後、甲子園は戦局の悪化で休止する。

 嶋はその後、明大に進むが、実力を発揮できず、さほど目立った成績は残していない。3年時には学生結婚し、後輩の真田に「結婚はいいぞ」とのろけたこともあった。

 4年目、学徒動員で兵役に。乱視だった嶋は、通信兵として艦上勤務となった。1945年3月29日、ベトナム沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、乗船中の海防艇が沈没。戦死した。
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング