1946年にマークした20本塁打は、今でこそ見慣れた数字であるが、当時の球界においては常識を覆すものだった。“青バット”で一時代を築いた大下弘は“赤バット”
川上哲治と並ぶ戦後プロ野球の象徴である。
川上の弾丸ライナーとは対照的な、大きく美しい放物線。その雄大なアーチは戦後の荒廃した日本に希望を与えた。職人然とした川上の風貌と好対照をなす奔放な人柄もあいまって、大下は生粋の天才としてファンをとりこにした。
天衣無縫のアーチストは私生活においても常軌を逸しており、毎日のように
大勢のチームメートを引き連れてネオン街を練り歩いた。西鉄移籍後は日夜、博多の町を豪遊し「大下を知らない芸者はもぐり」とまで言われた。その向こう見ずな遊びぶりのおかげで、引退時の貯蓄はゼロだったとの説もある。
球界きってのプレイボーイとして数々の伝説を残した大下であるが、その裏で野球に対する努力は決して惜しまなかった。人一倍の照れ屋であったことから、人目につかない早朝の時間を選び走り込みや素振りに励んだという。
引退後、自身は次のように語っている。
「私は野球には天才も名人もいないと思っています。天才とかなんとかは周りが言うことであって、実際は存在しませんよ。私だって凡才です。ONといえども凡人の中の非凡の程度じゃありませんか」
草創期の英雄の言葉は、きらびやかな才能で彩られてきたかに見えるプロ野球の歴史が、その実は偉人たちの地道な努力で紡がれてきたものだということを今に伝えている。
写真=BBM