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【野村克也の本格野球論】主題「衣笠祥雄」

 

非常に礼儀正しい男でもあった衣笠/写真=BBM


試合前、いつも律儀に挨拶を欠かさなかった


 鉄人・衣笠祥雄が亡くなった。

 私より一回りほど下の、71歳。人間って、悲しいな。早過ぎる。

 衣笠は、私と同じ京都府の出身だった。ただし、彼は京都市内の生まれで、平安高卒。私は日本海側の田舎育ちで、地元の高校卒業だ。それでもやはり、同郷のよしみでプロ入り当初から気にはしていた。

 彼もまた律儀で、京都の出身という以外はなんのつながりもないのに、オープン戦で対戦するたび、試合前には必ず挨拶しに来てくれた。非常に礼儀正しく、心根の優しい人間だった。

 聞くところによると、プロ入り当初はキャッチャーだったそうだ。どうしてキャッチャーをやめたのか定かではないが、彼の性格はキャッチャー向きだったと思う。他者に対する思いやりがあり、細やかな気遣いができるのだ。

 私がここでもよく触れていた『南海の三悪人』の一人・江夏豊は、周囲からはなかなか近寄りがたい雰囲気のある選手。南海から広島に移籍したときも、おそらく初めは孤立していたのではないかと思う。そんな江夏の気質を知ったうえで自ら声を掛け、数少ない友情関係を築いたのが、衣笠だった。

 1979年、広島と近鉄との間で行われた日本シリーズ。いわゆる『江夏の21球』のとき、ブルペンでリリーフが用意されたことに動揺したマウンドの江夏のもとへ、衣笠は真っ先に向かい、「俺も同じ気持ちだ」と言った。マウンドで孤立感を味わっていた江夏は、そのひと言で「俺には味方がいる」と、冷静になった。衣笠は「あそこでどういう言葉を掛けるかは、(自分がかつて務めていた)キャッチャーの素養だった」と言っていたそうだ。もちろん、そこには衣笠の素晴らしい人間性も大いにかかわっていると思う。

 プロ入り当初の背番号『28』と漫画『鉄人28号』がそもそもの由来、という『鉄人』の愛称。2215試合連続出場の日本記録(樹立当時は世界記録、現在は世界2位)を打ち立てる過程で、それを確固たる彼の“異名”にした。今はそんな異名を取る選手が、まったくいなくなってしまった。なぜだろう。

 体に近い球が来ても逃げず、死球を食らっても絶対に怒らない。もんどりうって倒れた後、むっくりと起き上がり、平然と一塁に向かうのは、衣笠くらいのものだった。

「お客さんはバッターが死球を受けて痛がっている姿ではなく、さっそうと一塁へ走る姿を見たいはず」と、ファンの視線を意識してのことという。立派なプロ意識だ。

私がやり残したことはなんだろう


 これは完全な余談だが、相手ピッチャーが故意にぶつけにきたか、投げ損じたか、バッターには分かるものだ。私も何度か危険な死球を受けた。なかでもあからさまな故意死球を投げてきたのは、西鉄の池永正明と東映の森安敏明だった。どちらだったかは失念したが、最初、投げ損じの球が頭の近くに来た。私もいけなかったのだ。危うくそれを避け、つい打席から「いい加減にせい、コラ!」と叫んでしまった。そうしたら、次はあからさまに頭を狙ってきた。今なら、完全に“危険球”で退場だ。

 当時はパ・リーグも指名打者制度がなかったため、ピッチャーが打席に立つ。池永も森安も、私にぶつけた次の打席では必ずホームベースから一番遠いところに立っていた。仕返しをされると思っていたのだろう。それだけで、故意にぶつけたのが火を見るよりも明らかだった。私は報復などしようとも思わなかったのに。

 それにしても、われわれ世代はおろか、下の選手までどんどん旅立っていく。順番が来ているのだな。

 わが女房も逝ってしまったし、最近は特に、死について考えさせられる。私はこのまま生きていていいのか。どういう死に方がふさわしいのか。ついでに、私があの世に行ったときには、誰が私の遺影に手を合わせに来てくれるだろうか、と余計なことまで考えてしまう。

 死について考えるのは、怖くない。ただ考えるのは、「楽に逝きたい」ということ。苦しまず、自然死に近い形で逝きたいとは私に限らず、誰もが望んでいるだろう。それを思うと、女房は理想の逝き方をしたなあ。

 女房を初め、「俺より先に逝くなよ」と思っていた連中が先に逝ってしまうのは困ったものだ。しかし、「わが人生に悔いはなし」と言って生涯を閉じることのできる人間は、果たしてどのくらいいるのだろう。“そのとき”になったら、やはり何かしら悔いが出てくるのだろうか。

 私にも何かやり残したことはなかったかな、と最近よく思う。今の私にできること、やるべきことはあと、なんだろう。“野球界への恩返し”だとしたら、何をすればいいのか。この原稿を書きながら、なお考えている。

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