2004年の北海道移転とともに球団改革を断行し、日本一2回、リーグ優勝5回を達成。パ・リーグの強豪へと変貌した北海道日本ハムファイターズ。英語通訳の身から登用され、改革の中心となった島田利正・前球団代表(18年定年退職)に、その成功劇の裏側を語ってもらった。 聞き手=山崎博史(ジャーナリスト) 写真=高原由佳、BBM 2006年に北海道移転3年目でリーグ優勝。1列目の右から6番目が島田氏。一つの大きな夢が結実した瞬間だった
現場とフロントの一体化ドラフト戦略も刷新
──ファイターズには英語の通訳として入団。英語力はどこで習得されたのでしょうか?
島田 両親が僕の就学をめぐって、夫婦喧嘩(げんか)をしてくれたおかげで、身に付きました(笑)。親父は中国人で、戦後、共産党の革命から逃げて日本にやって来たんです。そこで日本人のお袋と結婚し、僕が生まれたんですが、親父は中華学校に入れたい、お袋は普通の小学校に入れたい。それで、まあまあと間に入った人が「じゃあ、アメリカン・スクールにすればいい」とずいぶん安易に決めてくれた(笑)。それで、僕は高校まで12年間、横浜と調布(東京)のアメリカン・スクールに行ったんです。も、正社員になるとデスクワークばかりで、面白くない。海外取材は僻地が多くて危険が伴うから正社員は行かせなかったんです。当時はそんな時代でした。どうするか迷っているとき、またこれがファイターズで通訳をしている大学の先輩がいて、「オマエもやらないか」って誘われたんです。「じゃあ3年ぐらい」って割と軽いノリで決めました。渉外兼任で外国人相手のいろんな交渉をやり、アメリカにも出張して外国人選手の視察など、スカウトみたいなこともやっていました。
──そして20年余りが経った2002年、密命を負って「移転準備室」に配属されることになります。
島田 ここからがいろいろなことがあり過ぎて、本当に話すと長くなってしまうんですけど(笑)。僕は業界事情を知るにつれて「このままではファイターズは野球も、事業もダメになる」と思うようになった。例えば当時は監督が頻繁に交代していて、それこそ数カ月で辞めた監督さえいた。当時のプロ野球のシステムでは、監督がチームの方針を全部決めているのにです。一方で、僕は
ヤンキースがファイターズの提携球団だった関係で、毎年秋に開催されていたメジャー・リーグ傘下の教育リーグに顔を出すうち、当時1Aの監督だったトレイ・
ヒルマンと知り合った。ビールを飲んで話をしながら、彼からいろいろなことを学ばせてもらった。メジャーでは球団と監督で役割分担をしていると知り、ファイターズの現状にますます危機感を抱いたわけです。
──彼我(ひが)の差は大きい。
島田 球団も一企業として中長期の経営計画が必要ですが、ファイターズにはそれがなかった。ドラフト戦略一つを取ってみても、みんなが・・・
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