
“エンドランホームラン”の平野[右]。確かに顔が引きつっている
なぜバントが増えたのか
1982年からセンターのレギュラーになったんですが、打順は最初から二番で、当時のシーズン日本新記録だった51犠打をマークしています。なぜバントが増えたか? サインですし、自然にでしたね。バントがうまかったから? いやいや、ただ打てなかったからでしょ(笑)。
近藤貞雄監督がバントを多用するタイプだったこともありますし、チームが優勝争いをし、しかも一番の田尾(
田尾安志)さんの出塁率が高かったこともあるでしょう。田尾さんが大洋の長崎(
長崎啓二)さんと首位打者争いをし、優勝が決まる最終戦なのに(大洋戦。横浜)、5連続敬遠をされたシーズンです。
確か、開幕からバントのサインばかりだったわけじゃないと思います。シーズンに入ってしばらくは、僕もけっこう打っていましたしね(4月の月間打率は.348)。1カ月くらいしてから、コーチの黒江(
黒江透修)さんに、「田尾は、どんどん塁に出るから、お前はバントを練習しろよ」と言われ、本格的に練習を始めたように記憶しています。
バントの練習自体は、その前からよくやっていましたよ。バッティングには自信なかったし、僕にとっては、試合に出るための武器でもありましたからね。ただ・・・
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