背番号「6」の大黒柱

1999年から2004年まで早大監督を務めた[写真=BBM]
かつて母校・早大を監督として率いた野村徹さんが4月8日、死去した。89歳だった。関係者が明らかにした。
1937年1月1日生まれ。北野高(大阪)から早大へ進学。1960年秋。今も伝説の名勝負として語り継がれる「早慶6連戦」の正捕手が、野村さんである。早大はリーグ戦の早慶戦を2勝1敗で勝ち点4を挙げ、慶大との優勝決定戦へ持ち込んだ。2引き分け(日没
コールド)を挟み、再々試合にして天皇杯を手にした。5戦49イニングを投げた1学年下のエース・
安藤元博氏を好リードで導いた。前年から東京六大学では背番号が採用。早大の捕手として初めて「6」を着けたのが野村さん。以降、早大の守りの要、司令塔が背負う特別な番号として昭和、平成、令和と継承されている。
卒業後は社会人野球・大昭和製紙でプレーし、70年の都市対抗では監督として優勝。のちに近大付高(大阪)を率い、88年に春夏の甲子園出場へ導いた。99年春から2004年秋まで早大を指揮。99年春に11季ぶりの復活優勝を遂げると、02年春から03年秋にかけて、早大史上初のリーグ4連覇を達成。
和田毅(元
ソフトバンクほか)、
青木宣親(
ヤクルトGM)、
鳥谷敬(元
阪神ほか)ら数々の名選手を育成した。
野球人だけでなく、野村さんは社会で活躍する多くの「人」を残した。教育方針が一貫していた。野村さんが早大時代に4年間、指導を受けたのは石井連藏監督である。石井監督は水戸一高、早大を通じての先輩で、のちに「学生野球の父」と言われた早大の初代監督・飛田穂洲氏から薫陶を受けた。野村さんには飛田氏の言葉である「一球入魂」が擦り込まれており、学生野球の神髄を学んだ。
4連覇の要因

1960年秋の早慶6連戦では正捕手として逆転優勝に貢献した[写真=BBM]
早大を率いていた当時「日本一、グラウンドにいる時間が長い監督」と言われた。「熱血漢」だけで片付けることはできない。
「東伏見グラウンド=神宮球場」がモットーだった。何を意味するのか。
「東京六大学は先輩方が築き上げた素晴らしいプレーが、ファンをクギ付けにしてきた歴史がある。それに一歩でも近づくには、どういう気持ちで臨むか。常に大観衆の早慶戦を頭に入れて、平常心でプレーできる訓練をしなくてはいけない」
リーグ4連覇を達成できた要因は何か。野村さんの「教え」の一端が見えてくる。
「青木、鳥谷と、個人として技術のある選手がいたかもしれないが、チームとしての強さがあった。試合に出られる選手は限られているが、各々には役割がある。レギュラーをいくら強化しても、勝てるものではない。私は監督が見えない、例えば、室内練習場の隅っこで練習している学生の意識を見れば、チーム力が分かると思っていた。いかに危機管理を持って練習しているか」
当たり前のことを、当たり前にやる。コツコツと……。実は最も難しいことである。
「学生野球には、勝ち負け以上に大切なものがある。日常生活で、単純なことを、いかにして積み重ねていけるか。あいさつ、礼儀、食事の作法……。私生活は野球の基本であるキャッチボールと一緒で、全部員が意識高く、基礎基本を徹底していけば『家族』のようなチームになる。そのためには、レギュラー以外のレベルアップが必要。皆がWASEDAのユニフォームを着るために、4年秋の最後の早慶戦まで必死になって、汗を流す。4連覇を遂げた2003年のチームには、そういった底力があったように感じる」
厳しさの中に愛情

2003年秋には早大史上初の東京六大学リーグ4連覇へ導き、神宮の杜を舞った[写真=BBM]
野村さんは野球の技量に関係なく、分け隔てなく、メンバー外の練習にも付き合った。だからこそ、朝から晩まで休むことなく、グラウンドに立ち続けていたのだ。
「入部当時、塁間も投げられなかった部員がいたんです。彼の悩みを一緒になって考え、本人も努力を重ねて上級生になり、ついに投げられるようになった。そこで私は、練習を止めました。実際に投げさせ、努力の成果を発揮すると、東伏見グラウンドは、各部員から『すごい!』という拍手に包まれた。真摯に取り組む姿は、レギュラーにとっても刺激になったんです。そうした経験をした部員が教員になったと聞き、本当にうれしいことでした」
4年間、一生懸命、取り組んだ選手には必ず、チャンスを与えた。早稲田の野球を理解し、元気があり、ベンチワークで貢献する声出し要員も、登録選手25人では貴重な戦力だった。守備、代走専門の選手も重用した。当時の大人の指導者は野村さん一人。信頼を寄せるマネジャー、学生コーチが指揮官の側近としてチームに尽力した。
昭和的なアプローチにも映るが、誰よりも学生思いで、研究熱心だった。早くからスポーツ科学を勉強し、動作解析を導入するなど、最先端の野球を追い求めていた。また、現在の早稲田大学野球部の土橋恵秀トレーナーを、学生トレーナーとして初めて入部させ、選手だけではなく、学生の活躍の場を広げさせた功績もある。グラウンドでは妥協を許さない「鬼」だったかもしれないが、練習が終われば、何でも相談に乗ってくれる「オヤジ」の顔もあった。厳しさの中にも愛情があるから、卒業後も慕われ続けた。最近は闘病生活が続いたが、体調の良い時に合わせて、卒業生たちは恩師の下へ訪ねた。昨春の早慶戦では結成100周年の記念イベントで、和田がレジェンド始球式を行った。このタイミングで50人以上の教え子が集まり、野村さんと思い出話に花を咲かせていた。教え子の前では背筋をピンと伸ばし、現役監督時代のトーンに戻る。野球の力とは、不思議なものである。
練習の重要性
野村さんを初めて取材したのは、1999年2月。新監督就任インタビューの企画だった。この日は雨天で、屋外での練習ができず、東伏見グラウンドに隣接する室内練習場で学生たちは汗を流していた。限られたスペースでの練習であり、集中力を保つのが難しい状況。野村さんは、目を光らせていた。ピリッとした空気が充満。まさしく、神宮球場と同じ空間をつくり出していたのだ。インタビューで最も印象に残った2つの返答を最後に掲載する。
――目指している野球はありますか。
野村監督 僕の野球人生は早慶6連戦、都市対抗優勝、指導者として甲子園出場など、非常に運が良かった。でもそのすべてが、格好の良い野球ではなく、泥臭い野球でした。しかも、常に苦戦で、すっきりしたゲームはなかなかできませんでした。捕手出身だからでしょうね。どうしても、守りというのは意識します。1個のボールのために、9人が心を一つにすること。いかにキャッチボールが大切かということです。学生当時の野球は、キャッチボールだけでしたよ。神宮で負けて、安部球場へ帰って、キャッチボールだけ延々とやりました。しかも真っ暗ですから、ボールを投げようと思っても相手が見えない。相手も取れないわけですから、ボールを持った鬼ごっこみたいなことを毎日やっていました。それが原点なんです。一つのボールをみんなで渡し合えるという気持ちですね。
――早稲田大学野球部監督であるとともに、学生野球の指導者として抱負をお願いします。
野村監督 僕は今まで、彼らが入るかもしれない社会人、彼らが経てきた高校野球の両方を見ていますので、これが大事な卒業試験とも言えます。大学野球だからこそ、いつの時代も変わらないものがあります。それは礼儀であったり、一つのマナーであったりします。これら基本をなくして技術を云々することはできません。
4月8日の夕方、89年の人生に幕を閉じた。関係者によると、最期は教え子たちの写真を胸に抱えて、旅立っていったという。闘病中も心の中は、常に東伏見グラウンド(現・安部球場)にあった。何よりも練習の重要性を説いた。天国から後輩たちの取り組みを静かに見守る。
文=岡本朋祐