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冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!

大島康徳コラム第71回「野球人生でたった一度の子どもを抱いてのお立ち台」

 

運動靴の打撃は結構苦労しました


運動靴で試合にも


 前回は、2000安打達成の翌1991年の話から、いつものように少し脱線しました。

 以前も書いたことがありますが、僕は現役時代、記録やタイトルを自分の野球人生の目標や節目にしようという気持ちはまったくなかった男です。

 一度、亡くなられた衣笠祥雄さん(元広島)から「野球選手は数字も大事だよ」と言われたことがあり、引退してから「なるほど。そうなのかな」と思ったことはありますが、現役時代は何も思っていません。2000安打も300本塁打もすごくうれしかったし、ベテランになればなるほど、記録達成で「よくやったな、俺」という感慨は深くなりましたが、それで「自分はやり遂げた。もういい、やめよう!」とはならなかった。喜びはその日だけで「よし、あすもまた頑張るぞ!」でした。

 これは僕自身の考え方でしょうね。プロ野球という自分の仕事をきちんとこなし、給料をもらい、それで家族を養っていきたい、と思っていただけなんです。サラリーマンの方が仕事を定年までやり抜きたいと思うのと同じじゃないでしょうか。44歳で引退しましたが、本当は46歳、47歳、いくつになっても、自分の仕事があるならまっとうしたいと思っていました。

 だから、どんなに不振でも、代打でも、仮に出番がない可能性が高くても、それが僕に与えられた仕事だと思っていました。時にはベンチでヤジって終わったりすることもありましたが、くさったりすることはなく、悔しさがあっても球場の風呂に入って切り替えて帰る。その繰り返しでした。中日時代の近藤貞雄監督が、攻撃的メンバーから試合途中守備的メンバーに代える「ツープラトン制」にした時期があり、あまりに簡単にスタメンから途中交代させられるんで、腹が立って試合中に帰ってしまったことがありますが、本当にあのときだけです。

 94年、現役最後の年も、すでに引退が決まってからも休まず、シーズン終了までチームに帯同しました。最後まで選手で頑張り、公式戦がすべて終わったらやめる、という考えでしたね。

 体自体はあちこちガタが来ていました。僕は日本ハムに88年に移籍してきましたが、そのころからずっと苦しめられていたのはアキレス腱の痛みです。腱ではなく、小さな骨が飛び出していて、動くと当たって痛いんですよ。スパイクを履けないし、特に朝は、階段を真っすぐ降りられない。横になってカニ歩きで降りていきました。

 トレーナーと相談しながらシューズも工夫していろいろやってみました。ただ、スポンジを当てると動いてしまうし、カカト全体をカバーするような靴だと当たって痛い。最終的には運動靴でやっていました。練習だけじゃなく試合でもね。外国人選手にはたまにいますよ。

 僕はこういう性格ですから、このことを自分からは誰にも言いませんでした。高田繁さんが監督のときには、コーチから「監督が、なんで運動靴なんだ、スパイクを履けと言っているぞ」と言われ、そこで「履きたくても、履けないんだ」と説明したこともあります。

 困ったのは打撃のときですね。東京ドームの赤土はまだいいんですが、屋外の黒土で水をまいていたりするとすごく滑るんですよ。要はステップする投手側の左足ですね。ここで踏ん張れない。仕方がないから踏み出す足をそっと置いたり、いろいろ技術的にも工夫しながらやっていました。自分の理想のスイングからは離れざるを得ませんでしたが、この時期は気づきもたくさんあって、指導者としてはいい経験をしたと思っています。

 最初は後楽園でしたが、徐々に人工芝が増え、あれもきつかったですね。ヒザにくるし、屋外球場だと炎天下の暑さが半端じゃないんですよ。もうサウナです。内野だと確かにほとんどイレギュラーしない安心感はありましたが、球足が速くなるし、外野だとスライディングができない。こすれて擦過傷ができちゃいますからね。最近はかなり良い素材のものが登場していますが、選手サイドからすれば、やはり天然芝には勝てないな、と思います。

野球を愛してます


 92年は土橋正幸さんが監督になった年ですが、シーズン前に「引退してコーチにならんか」と打診がありました。外様なのにコーチに誘ってもらうのはありがたいことではあったんですが、僕は「現役一本で勝負させてください」とお願いしました。まだ、“定年”じゃないと思ったんです。

 この年は、ほとんど代打専門でしたが、結構、いろいろなことがありましたよ。マイ担当のさかもっちゃんが当時の記事を探してくれたので、振り返ってみましょう。

 6月20日には、東京ドームのオリックス戦でのシュルジーという投手にビーンボールまがいの球を頭近くに投げられたことがあったようですね。う〜ん、かすかに覚えてるかな。小競り合いになった後、外国人選手はカッカしやすいですから、またインコースに投げてきたようですが、さすが、大島。負けてはいません。しっかりタイムリーで仕留めました。拍手ですね。

 8月20日の通算2500試合は覚えてますよ。当時で史上6人目ですから、さすがの僕もすごい数字だなと思いました。これは2000安打と違って試合前から分かるのも助かりますよね。

 前日からスタメン出場と分かっていたので、東京ドームの西武戦だったんですが、スタンドにナオミさんと次男坊を呼んでいました。

 あれ、長男はなんでいなかったのかな……、覚えてません。

 2点を追う3回、この試合の初打席だったようですが、西武・渡辺久信の140キロの真っすぐをレフトスタンド上段へホームラン。いいですね、しびれます。試合も結局12対5で大逆転勝利だったようです。

 試合後、お立ち台にも呼ばれ、僕は次男坊を抱っこしてインタビューを受けました。子どもと一緒なんて人生初です。外国人選手はいたけど、日本人選手は初めてじゃないですか。僕もしたくてやったわけじゃなく、何となく流れでそうなっただけでしたけどね。

 そこでの言葉も載ってました。少し照れくさい言葉だけど、引用しておきます。

「野球を愛しているからこそ、ここまでやってくることができました!」

 愛している……って。41歳、大島。まだまだ青春してますね!

 そう言えば、その92年に大型新人として、同志社大から鳴り物入りで入ってきたのが、片岡篤史です。図体がでかく、ちょっと愛想がなくて勘違いされやすいのは僕に似ています。本当は心優しいヤツですよ。次回は彼との思い出も書いてみたいと思います。

PROFILE
大島康徳/おおしま・やすのり●1950年10月16日生まれ。大分県出身。右投右打。中津工高からドラフト3位で69年中日入団。3年目の71年に一軍初出場の試合で本塁打を放つ。76年にはシーズン代打本塁打7本の日本記録。翌77年に打率.333、27本塁打の活躍で不動のレギュラーとなり、79年にはリーグ最多の159安打、36本塁打、リーグ3位の打率.317の大活躍。83年には36本塁打で本塁打王にも。88年に日本ハムへ移籍、90年には史上最多の2290試合を要して2000安打に到達した。94年限りで現役引退。2000年から02年まで日本ハム監督も務めた。現役通算成績2638試合、2204安打、382本塁打、1234打点、88盗塁、打率.272。

中日、日本ハムで主軸打者として活躍し、日本ハムでは監督も務めた大島康徳氏が自らの一風変わった野球人生を時に冷静に、時に熱く振り返る連載コラム。

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