
入団1年目、春季キャンプでの清原。常に報道陣に囲まれていた
強烈な「話し掛けるなオーラ」
「甲子園は清原のためにあるのか!」
夏の甲子園大会の実況での絶叫、伝説のアナウンサー・植草貞夫さんの名セリフである。
植草さんが絶叫した1985年夏の大会決勝、
清原和博の甲子園でのホームラン──。そのとき僕は後楽園球場で試合前の練習中、打撃投手としてひたすらボールを投げ続けていた。
PL学園高で1年夏から四番打者となり、5季連続甲子園出場。清原は“怪物”の名を欲しいままにし、暴れまくる。当然、この年のドラフトの注目選手として脚光を浴びた。しかし、小さいころからあこがれ続けた
巨人軍入団の夢は叶わず、涙を流した。
86年、清原はパシフィック・リーグの
西武ライオンズでプロ野球選手としてのスタートを切る。高卒ルーキーとしていきなり1年目からの大活躍。実力、人気ともにプロ野球界の中心に君臨する若きホープとなった。僕は「もし、巨人に清原が入っていたら、どうなっていたのかな」と自分一人の空想を楽しんでいた。
そして、96年オフ……。清原はFA権を行使した。「清原巨人軍入団」が現実になった。同年11月25日……。広報部所属となっていた僕は、「新橋第一ホテルの地下駐車場から清原君を会見場へアテンドしてくれ」と広報部長からの命を受けた。
僕が清原と初めて会ったのはホテルの地下駐車場だった。「清原です。よろしくお願いします」と緊張している様子を隠し切れない清原は丁寧に僕に頭を下げた。記者会見場に案内すべく、2人でエレベーターホールに向かうと、すぐさまスポーツ紙の巨人担当記者ら10名ほどがサッと清原を取り囲む。ちょっと物々しい雰囲気だ。僕たちは無言で進む。数歩歩いたところで清原が「目薬忘れた」と言って、自分の車にいきなり引き返した。
僕は記者たちを振り払いたいようなその不自然な動きを見て、不穏な空気を感じた。とは言っても、特に一人の選手のケアにそれほど苦労はしないものだろうなどと思っていた。
しかし、それは甘かった。
巨人・清原が誕生すれば、特にスポーツ紙などは連日、清原ネタで紙面を作りたいところだ。ただ・・・
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