愛称は“コング”。山形県出身ながら、まるで南国育ちのような野性味あふれる顔立ちと豪快なバッティングで人気選手となり、広島の主砲を務めた。故障がつきまとったプロ野球人生。生まれ故郷・東北でピリオドを打ったが、その表情にはやり切ったという満足感がにじみ出ていた。 取材・文=富田庸、写真=桜井ひとし、BBM 
2004年は90試合に出場して11本塁打とレギュラーに肉薄。オフには結婚し、公私ともに充実したシーズンとなった
東北で過ごしたラストイヤー
熱く優しいハートで多くのファンに愛された。長年過ごした広島に骨をうずめる覚悟もあったが、自らのプライドをかけて移籍を決断した。満身創痍の肉体にムチを打ちながら臨んだ最後の戦い。そこにピリオドを打った栗原健太が、穏やかな表情で現役生活を振り返っていく。 ──引退会見を行ったのが10月1日ですから、すでに1カ月以上が経過しています。
楽天の二軍打撃コーチ就任が決まっており、ご自身にとってはすでに過去の話かもしれませんが、あらためて引退に至るまでの経緯を聞かせてください。
栗原 ファームの公式戦が9月25日に終わったんですけど、引退を決めたのはその1週間くらい前ですかね。今シーズン、楽天にテスト入団したわけですけど、自分の中では「この1年」という決意を持ってやっていましたし、結果が出なければ……ということも当然考えていました。実際、一軍には一度も上がってないわけですから。やはり、一軍の戦力になれなかったことが、自分の中では大きかったです。
──現役を退くとなれば当然、ご家族にも話したと思います。
栗原 妻に打ち明けたのも同じタイミングだったと思います。僕には3人の娘がいるんですけど、楽天でプレーすることになって、小学生の上の2人は、広島の妻の実家に預けました。三女はまだ小さいので、妻と一緒に仙台に来て、3人で暮らしていたんです。家族離れ離れは寂しいんですけど、僕としてはこの1年が勝負だと思っていたので。
──ついてきてくれた奥様とは、どんな話をされたのでしょうか。
栗原 妻は「一生懸命やってきた姿はずっと見てきたし、私も悔いはないよ。お疲れ様」と言ってくれました。故障が多いプロ野球人生でしたから、妻には苦労させたと思います。
──現役を引退すると決めて、思い浮かんだことなどはありますか。
栗原 決めるまでは本当にいろいろ考えましたけど、自分で決めて、周りに報告してからは、どこかスッキリした思いでした。今まで肩に重くのしかかったものが取れたような、自分の中では精いっぱいやってきて悔いはないという気持ちです。いいときも悪いときもありましたが、どんなときでも真剣に野球に取り組んできたつもりですし、正直、プロに入ったときはここまで長くやれると思っていなかった。いろいろな方に支えられて長くやってこられましたので、感謝の気持ちでいっぱいです。
──高校を卒業して以来、広島で16年、そして楽天で1年、17年もの間、プロ野球選手として走り続けてきたわけですが、そうではない自分に戻るという実感はありますか。
栗原 いやあ、正直、想像がつかないですよね(苦笑)。オフの期間も含めて、“24時間プロ野球選手”という生活をずっと送ってきました。常に野球中心の生活でここまでやってきましたから。“選手である自分”と考えなくていいのはラクですけどね。でも、その一方で寂しい部分ももちろんあります。
──ラストシーズンを地元である東北の球団で過ごした意味。これをどうとらえているのでしょうか。
栗原 高校を卒業して広島に行きましたから……人生で過ごした時間というのは東北と広島、だいたい半々なんですよね。もちろん、どちらの場所にも愛着があるんですけど、昨オフに広島を自由契約になって、どの球団に入れるのか分からないという状況の中で、ゆかりのある楽天に声を掛けてもらえました。小さいころから応援してくれた山形の皆さんが近くにいるわけですから、その分の恩が返せるのかなと思うとうれしかったですね。実際に山形では4、5試合、二軍戦があったと思います。やはり地元ということで大声援をいただけましたし、生まれ故郷に戻ってきたなという実感がありました。
偉大なる先輩の背中を追いかけた日々
日大山形高から2000年ドラフト3位で広島に入団した栗原。この年の1位は河内貴哉(国学院久我山高)で、同じ高校生でも注目度はケタ違いだった。栗原自身、やっていけるという密かな自信を持って飛び込んだプロ野球の世界だった。だが、待っていたのは超一流の先輩選手たちと、練習漬けの過酷な日々だった。 
プロ初先発は2002年9月4日、七番・三塁で出場。豪快な空振りでプロ野球人生の幕が開いた
──まず、プロ野球の世界はご自身の目にどう映りましたか。
栗原 高卒新人として二軍スタート。「ある程度やれるんじゃないか」と思って入ったわけですけど、春季キャンプで先輩方のスイングや球の速さを見て「レベルが違うな」と思い知らされました。ただ、その中でも何とかしがみついて、一軍で活躍したいという思いをもってやってきました。その気持ちだけは、引退する瞬間まで持ち続けられました。
──カープといえば、猛練習が広く知られるところですが。
栗原 練習は本当にキツかった。今思えばよくやったと思えますね。僕がルーキーだったころの主力といえば金本さん(
金本知憲、現
阪神監督)、野村さん(
野村謙二郎、前広島監督、現野球解説者)、緒方さん(
緒方孝市、現広島監督)、そして前田さん(
前田智徳、現野球解説者)とそうそうたる面々がいらっしゃいました。すごくお手本になるとともに、そんな方々が猛練習しているわけですから。若い僕らはそれ以上やらないと追いつけないわけです。洗礼を受けたという意味では、やはり練習量ですね。手にマメができて痛い。それでも振らなきゃいけない。加えて連日の特守で足腰はガクガク。高校で猛練習をやったつもりでいましたけど、全然違いましたね。毎日顔を合わせる打撃コーチ、守備走塁コーチが、冗談抜きで鬼に見えました(笑)。

厳しいことで有名な広島の春季キャンプ。朝から晩まで泥にまみれ、プロで戦う地力を蓄えていった
──厳しい練習を乗り越えて、身も心も赤ヘル軍団と一体になりました。15年のシーズン後に広島を離れるという決断をしたわけですが、ご自身の中で葛藤はありましたか。
栗原 11年、最初のFAの際に残留を決めたのは、やはりずっとBクラスで悔しさを味わってきたので、「このチームで優勝したい」という思いが強かったからなんです。このFA残留の時点では「カープで(現役生活を)終えるのかな」という思いがほとんどでした。そう考えると、広島を出るというのはすごく大きな決断になりましたよね。
──今季、25年ぶりのリーグ優勝を果たしたカープですが、ファンが本当に熱いというイメージがすっかり定着しています。
栗原 ここ数年、結果を残してきていますからね。本拠地は常に満員ですし、二軍の由宇球場にも本当に多くのファンの方が駆けつけてくれていました。僕がいたころ、カープはずっと優勝ができなくて、そして楽天に移籍した今季、25年ぶりの優勝。カープを出た時点で、自分の中で一線を引いたつもりなので、とにかく楽天で頑張ろうという気持ちでプレーしていました。それでも長く所属してきた球団ですし、仲間もいっぱいいますから、やっぱり今季の優勝はうれしかったですよ。