兵庫・小野高、慶大で活躍し、東京六大学リーグ戦では早大・和田毅(ソフトバンク)と真剣勝負を演じた元フジテレビアナウンサーで現スポーツアンカーの田中大貴は、1980年生まれの「松坂世代」の1人。そんな野球人・田中が、同年代の選手たちをプロ野球現場の最前線で取材した至極のエピソードを、コラムにして綴る連載第34回です。 
九州学院高3年夏の甲子園では初戦で敗れはしたものの、2打席連続アーチで聖地に強烈なインパクトを残した
スターぞろいの九州勢
ソフトバンク時代も
ヤクルト時代も、一番声を出す選手でした。そして、気さくに声を掛けてくれる。とにかく快活で、話すと逆にパワーをもらえたものです。しかし、高校時代、松坂世代の右打者では「最高のバッター」と言われた
吉本亮の第一印象は違っていました。
九州学院高では、グリップエンドいっぱいまで長くバットを持ち、懐は深く、鮮やかなアーチを描くスラッガー。1998年夏の甲子園、平塚学園高戦での2打席連続本塁打は強烈なインパクトがありました。高校通算66本塁打。テレビ越しに見る吉本は私にとって遠い存在で、まさに野球エリートという印象でした。ただ、実際に会うと僕ら報道陣と同じ目線で懇切丁寧に対応してくれる。そして、練習ではとにかくどの選手よりも声を出し、チームを盛り上げる。ガッツある男でした。
当時、熊本県内には澤村幸明(現日本通運監督。熊本工高→法大→日本通運)擁する熊本工高が君臨し、96年夏の甲子園決勝で松山商高と歴史に残る試合を繰り広げたばかり。もともと伝統校で圧倒的な人気を誇り、熊本県内各校の大きなカベとなっていました。
「熊工は熊本県を代表するチームでした。大きなカベ。とにかく熊工に勝たないと甲子園には行けないと思っていました。“打倒・熊工”、これが合言葉でした。今、日本通運野球部で監督を務めている澤村君が1年生から活躍し全国に知られているチーム。常に挑戦者の気持ちでした」
98年の夏は・・・
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