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野球浪漫2025

日本ハム・今川優馬 夢の終わり、夢の始まり「あきらめない限り夢破れることって絶対ないと思うんです。最後の最後まで何が起こるか人生分からないので」

 

2021年、小学生時代から応援していたファイターズの一員になる夢をかなえた。あこがれの世界に飛び込んでから5年目。一軍で結果を残し続けることの難しさを痛感しながら、それでももがき続けている。
文=佐野知香 写真=高原由佳、BBM


野球って楽しいもの


 2004年、北の大地にプロ野球球団がやって来た。

 北海道における野球の歴史は札幌農学校(現北大)を起点に1800年代後半には始まっており、決して浅いものではない。それでも、2004年夏に駒大苫小牧高が全国制覇を果たすまで春夏通じて道勢の甲子園優勝はないなど“野球不毛の地”の印象が根強かった。そんな中で日本ハムが東京から本拠地を移し、地域の名を冠した「北海道日本ハムファイターズ」が誕生。北海道中の人が沸き立った。

 当時7歳だった今川優馬も、その熱狂ぶりを覚えている。それまでも野球好きの父親に連れられて、北海道開催の巨人戦を球場で見ていた。しかし、地元・札幌に現れた“おらがチーム”にすっかり心は奪われた。

「誰のファンというよりか、もう本当にチーム全員が大好き。今の監督である新庄(新庄剛志)さんをはじめ、稲葉(稲葉篤紀、ファーム監督)さん、森本(森本稀哲、外野守備走塁コーチ)さん……、本当にみんな大好きな選手でした」

 1年目から札幌ドームに通った。当時はファンクラブに加入すると、小学生は外野自由席ならば無料で観戦することができた。自身も野球を始めてからは行ける機会も限られたが、それでも両親の都合が合えば月に1、2回は球場へと連れて行ってもらった。

「なるべく前で見たいから、開場前から早く並んで、入ってからもダッシュして。当時はよく一塁側で見ていたので、稲葉さんのキャッチボールとかも間近で見ていました。一度、練習中に兄弟たちと一緒に『稲葉さ〜ん!』と名前を呼んでいたら、ボールをくれたことがあったんです。だから、今一緒のチームにいるのは本当に不思議な感じです」

 小学3年生のときに軟式野球を始めた。きっかけの一つにはもちろん、日本ハムの存在があった。

「それまで野球選手はテレビの中の人というような漠然とした印象しかなかったんですけど、球場に行く機会が増えて、生で見たら本当にかっこいいな、いつか自分もプロ野球選手になりたいなと思い始めました。何より野球って楽しいものなんだなと学んだのは、ファイターズであり新庄さん。ファイターズを見て育ったからこそ、僕自身も野球を楽しくやろうというのは今も心掛けています」

 そのあこがれが、より具体的な形を伴うようになったのは東海大北海道キャンパス時代。中学では軟式野球部に所属し、東海大四高では控えのメンバー。それまでの実績はほぼ皆無だったが、外野手のレギュラーとなった3年春に大学選手権に出場し、主軸に座った今川は強豪・東洋大との1回戦で先制のソロアーチをマーク。その後も好打を放ち、チームの4強入りに貢献した。「やっぱり北海道だとスカウトの方に見てもらう機会も少ないし、それこそまったく知名度がなかったんですけど、東京ドームでホームランを打って、そこから名前が広がってちょっとずつ見てもらえるようになって。少し手応えというか、やっとプロ野球選手の夢を目指す入り口に立てたのかなという感じでした」。大学ラストイヤーの4年春は打率.464で首位打者賞とベストナインを初受賞。5本塁打を放ち特別賞にも輝いた。しかし、部内の不祥事で大学選手権の出場を辞退することに。最後の全国でのアピールの舞台を失うこととなった。

 同年秋、今川はプロ志望届を提出するも指名漏れとなる。

「プロ1本で考えていたので、進路が何も決まっていなくて。うわっやばい、どうしようとなったんですけど、独立リーグなら最短1年でプロに挑戦できるから、そこで勝負しようかなと思った矢先にJFE東日本からお話をいただいたんです。関東のチームだったので、やっぱり北海道よりも関東で活躍するのが一番早いなとも思って、じゃあ2年間もう一度死ぬ気で頑張ろうと決意しました」

 JFE東日本では1年目からレギュラーを奪取。都市対抗には二番・左翼でスタメン出場し・・・

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