
後日、引退試合であいさつする西沢
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月25日だ。
1936年、15歳で名古屋(
中日)入団。16歳でプロデビューした中日の
西沢道夫。当初は投手で40年に20勝、42年には大洋戦で伝説の延長28回を完投している。
戦後、他球団で復帰したが、肩を痛めたこともあって打者転向。中日復帰後の52年には打点王と首位打者、54年にはチームの優勝、日本一に貢献したスーパースターである。
背番号15は永久欠番。当時、そのような呼び方はなかったが、“初代ミスタードラゴンズ”と呼んでも異論はあるまい。
ただ、引退発表は、ひっそりしたものとなってしまった。
ラストシーズンは、1958年、試合数は少ないが、打率は.275と、まだまだ余力は感じられた。しかし、西沢自身が引退を望み、何度も球団からは慰留されたというが、本人の意思が変わらず、球団があきらめる形となったらしい。
11月25日、この日は、名古屋市の八百善で行われたチームの納会だった。球団としては、後日、大々的に引退会見を開こうと思っていた矢先、それが発表されてしまった。会場となった店の別室で、西沢が球団幹部の知らぬ間に、新聞記者たちに引退を表明してしまったのだ。
西沢によれば、東京の自宅で知り合いの記者にもらしたことで騒ぎとなり、これ以上隠せないという思いもあって自身の判断で発表したというが、もしかしたら、まだ球団は引退を了承しておらず、慰留される中で、いろいろ面倒になり、自分で決めて先走ったのかもしれない。
西沢は非常に心優しく、繊細過ぎるくらい繊細なタイプだった。そうであってもおかしくはないように思える。
「身も心もさっぱりしました。何も自分の歩いてきた道に思い残すことはありません」
後日のインタビューで、西沢はすっきりした表情でそう語った。
引退後について尋ねられると、「これからは家庭生活、ことによき父として、子どもたちの面倒を見なければならないと思います」と語り、ラジオとテレビの解説者として契約したことも明かしている。
「ファンの方にわかりやすく、しかもユー
モラスにやっていきたいと思っています。自慢するわけではないんですが、僕の声は割合聞きよいとアナウンサーの方に言われたことがあるんです」
と笑顔も見せた。ただ、指導者での球界復帰については、
「私は二度とユニフォームを着ない覚悟で引退しました。そういう勧誘があってもお断りします。私は人の上に立って、たとえばコーチとして人を指導する力はありません。自分の力は自分が一番よく知っています」
ときっぱり。実際には63年にコーチとなり、64年から67年までは監督も務めたが、その間、失踪騒ぎを起こしたこともある。最後は体調不良で68年のシーズン直前に退任した。
写真=BBM