現在、ホエールズとベイスターズ、70年の歴史をまとめた『1950-2019ホエールズ&ベイスターズ70年の航跡』が発売中だ。同書に球団の選手、関係者の証言で歴史を振り返る「時代の証言者」を掲載しているが、同企画をここに公開する。 97年途中から感じた変化

tvk・吉井祥博アナウンサー
やわらかい口調で正確に試合の出来事を伝えていく。23年目を迎えてもその声は澄み切っている。テレビ神奈川(tvk)の吉井祥博アナウンサーは、チームの絶頂期から低迷期、
DeNAとなった現在の隆盛期のすべてを見守ってきた。
大矢明彦新監督となった1996年から実況を始めた。岩手の放送局を95年12月に退社し、1月に入社。2月には横浜の春季キャンプ取材に出向き、そこから現在に至っている。
「96年ホーム開幕戦でのヒーローインタビューが最初の仕事でした。この試合、波留(敏夫。現
中日コーチ)選手が自分のまずいプレーで延長になった後、決勝本塁打を打ってのお立ち台ということもあり、波留さんが号泣したんです」
当時の解説者の中には、大洋の大エースであった
秋山登や2ケタ勝利5度の
鈴木隆らOBがおり、実況をしながら野球の知識など多くのことを学んでいく。
実況の中では気を付けていることがある。ありのままの状況をしっかりと伝えることだ。
「一度、普通のショートゴロを『ナイスプレー』と言ったことがありました。このときは
石井琢朗(現
ヤクルトコーチ)に怒られましたね。あれは普通のプレーだから、と(笑)」
97年の途中からは、ベイスターズの状況が変わってきたのを実況席から感じ始めたという。
「この年の夏場に神宮でヤクルト相手に3連勝したんです。この辺りから9回に『ピッチャー・佐々木』と
コールされると球場中が異様な騒ぎ方をし始めたんです。余計なことを話すよりも、この歓声を視聴者に聞かせないといけない、と思うほどでしたね」
実際に吉井氏は「ベイスターズファンの方で、状況が許す方は、テレビのボリュームを上げてお楽しみください」と伝え、守護神・
佐々木主浩がマウンドに上がるまでの球場の歓声を、球場の音だけで聞かせる演出をしたのだ。それくらい当時の佐々木の存在は絶対的だったのだ。しかも97年は、優勝争いをするまでのチームとなっていた。だが、ヤクルトの
石井一久(現
楽天GM)にノーヒットノーランを達成され、失速。2位に終わった。
黄金時代は続くと信じていたが……

吉井アナが思い出深いと語る金城。首位打者に立ったことを報じるスポーツ紙を前にニッコリ
前年の悔しさもあり、98年のシーズンは、チーム自体が春先から優勝する雰囲気になっていると吉井氏は感じていた。どこかのイニングで必ず打線がつながり、負けていても試合をひっくり返し、中継ぎ陣で何とか抑えていく、という試合の記憶が残っている。
リーグ優勝は甲子園。吉井氏は野球実況アナを志した理由の一つに、「ビール掛け」の実況することがあったが、入社3年目で実現。「みんながうれしそうに(私に)ビールを掛けてくれる様子がうれしかったですね」と当時を振り返る。
その後も、黄金時代は続くと信じていた。だが、佐々木がメジャーに移籍し、正捕手の
谷繁元信が中日へ抜けるなど歯車が狂い始め、一気に低迷期に入っていった。とはいえ、吉井アナは弱いチームという感覚はあまりなかったという。「その日の試合をしっかり伝えていく仕事なので、その中で勝ち負けがつく感じです。試合が終わってみて、今日も負けていた、という感じ」でしかなかったという。
当時、思い出に残っている選手は
金城龍彦(現
巨人コーチ)だという。「レギュラーをつかむ人はこういう選手なんだ、と」。2年目の2000年、ここで打たなければ二軍に落ちるという瀬戸際の打席で、プロ初本塁打を打ち、そこからレギュラーの座を射止め、一気に首位打者まで駆け上がったのだ。
思い出に残る試合はつい最近だという。3年前の横浜スタジアムでの
広島戦。9回裏、ロペス、
筒香嘉智、
宮崎敏郎の3者連続本塁打でのサヨナラ勝ちだ。
だが、これがベストではない部分もある。なぜなら毎試合、ベイスターズとともに23年間一緒に歩んできた分だけ、すべてが記憶に残る試合なのだ。その一瞬、一瞬のシーンに魂を込めるからこそ、今日の1試合が思い出深いものになる。日々の試合に魂を込め、実況をしていく。その姿は今後も変わることはない。
文=椎屋博幸 写真=BBM